【苦行の権化】トゥリヤーナンダの生涯(4)ニューヨークで真理を叫び、カリフォルニアの荒野を拓く

Ramakrishna world

アメリカ渡航までの経緯

「サイクロンのようなヒンドゥ教徒」と呼ばれたヴィヴェーカーナンダは、欧米を席巻し布教は大成功をおさめました。1897年2月、彼はインドの国民的英雄として凱旋帰国したのです。インドではヴィヴェーカーナンダを称えるセレモニーが、至るところで開催され、群衆は雪崩を打って彼を取り巻きました。

ヴィヴェーカーナンダは炎のような演説でそれに応え、民衆を鼓舞しました。その結果コルカタに着いた頃には、彼の肉体は疲弊し切っていました。

西洋において組織化の重要性を学んだヴィヴェーカーナンダは、すぐさまラーマクリシュナ・ミッションを発足させました。1898年2月、ベルルに新しい僧院のための土地が購入され、建物の建築が始まりました。 

その頃、トゥリヤーナンダのハートは放浪と苦行にあって、僧団の活動には無関心でした。しかしヴィヴェーカーナンダの度重なる要請を受けて、彼は僧団に加わる若者の訓練と、一般人向け聖典のクラスを担当しました。

激しい救済活動がたたり、ヴィヴェーカーナンダの健康状態がひどく悪化しました。医師たちが治療法として長い船旅を勧めました。

長びく病を憂慮した兄弟弟子たちも熱心に勧め、彼も同意しました。ヴィヴェーカーナンダは二度目の欧米遠征に旅立つことになりました。

彼はトゥリヤーナンダに、一緒に来てほしいと頼みました。ヴィヴェーカーナンダは理想的なインドの出家修行僧を、アメリカに紹介したいと思っていました。そこで白羽の矢が立ったのがトゥリヤーナンダでした。

しかし布教活動に関心のないトゥリヤーナンダは断固拒否しました。話は平行線をたどり、何を言っても説得は不可能と知ったヴィヴェーカーナンダは、彼の首に両腕を回し、子供のように泣きながら言いました。

兄弟ハリよ、わたしが師の仕事を成し遂げるために、まさに死にそうになるまで、一寸刻みに自分の命を削っているのを知らないのか! 君はただ見ているだけで、わたしの重荷の一部を軽くするために、助けに来てはくれないのか?

この心からの叫びにトゥリヤーナンダは圧倒されました。彼はヴィヴェーカーナンダへの愛ゆえに承諾したのでした。

ニューヨークのストリートで真理を叫ぶ

1899年8月、トゥリヤーナンダは渡米しました。「インドから来たばかりのヒンドゥ僧侶がいる」というニュースは瞬く間に広まりました。

アメリカにはインドの宗教や哲学に関する情報はすでに伝えられていました。アメリカの求道者たちはいまインドの霊性を具現化している人を求めていたのです。

そこへトゥリヤーナンダはインドのオーラを身にまとって現われました。きわめて瞑想的で、優しく、快活で、超然としていた彼は、まさに生きる霊性の炎でした。彼は行く先々で歓迎され、愛され、人望を得ました。

トゥリヤーナンダはまずニューヨークでクラスを指導し、講義しました。彼は情熱をもって語り、他の一切を忘れるほどそのテーマに没入しました。談話はしばしば夜半すぎまで続きました。

あるとき、トゥリヤーナンダは西洋人の弟子グルダースとともに、ニューヨークで最も近代化された街を歩いていました。彼は自分の話に熱中すればするほど速く歩き、声はますます大きくなりました。

これだけでも十分に通行人の目を引いていました。突然トゥリヤーナンダは路上に立ち止まり、拳を空中に挙げてグルダースに叫びました。

ライオンであれ! ライオンであれ! 檻を破って自由になりたまえ!  大きく跳び上がるのだ、そうすればこの目的は成就する!」トゥリヤーナンダはハイカラなニューヨーカーたちの度肝を抜いたのでした。

トゥリヤーナンダは無尽蔵の話題を持っており、誰もが魅了されました。あるとき生徒は「どうして常に神の話ができるのですか? 話の種が尽きることはないのですか?」と尋ねました。

「わたしは子供のときから霊性の生活をしてきて、それがわたしの本性になりました。何かが出ていけば、必ず母なる神が補給してくださいます。彼女の御蔵が空になることはないのです」と彼は答えました。

そして、人々の輪から解放されると、彼は必ず瞑想に戻るのでした。

トゥリヤーナンダ

カリフォルニアの荒野の真ん中で

体調が幾分回復したヴィヴェーカーナンダは、1899年11月、西海岸で講演活動をはじめました。彼はサンフランシスコとロサンゼルスで熱狂的な反響をまき起こしました。ここに留まるように懇願する人々に、ヴィヴェーカーナンダは約束しました。

「わたしはただしゃべっただけだ。だが、わたしが教えたことを、どのように生きるのか見せてくれる仲間をここへ寄こそう」。そしてトゥリヤーナンダが西海岸にやってきたとき、生徒たちは、彼にヒンドゥーの生きる理想を見て、感動したのでした。

インドの出家修行者のように暮らせる場所が欲しいと、ある生徒がカリフォルニアの84ヘクタール(東京ドームおよそ18個分)の土地を、ヴィヴェーカーナンダに寄進しました。そこは『シャーンティ・アシュラム修行道場』と名づけられ、修行道場を作るために、トゥリヤーナンダと生徒たちが送り込まれました。

1900年8月2日、トゥリヤーナンダは西洋人弟子のグルダースを含む、12人の男女とともに出発しました。サンノゼまで汽車で移動し、リック天文台で有名な標高1300mのハミルトン山に馬車で登りました。そこから目的地のサン・アントニオ・ヴァレーへと下っていきました。

ハミルトン山のかなた35キロの道は狭く、ひどいほこりでした。危険な断崖が連なっていました。婦人の一人が暑さにやられて落馬したため、トゥリヤーナンダは馬車の席を彼女に譲り、彼自身は最後まで馬で移動しました。

シャーンティ・アシュラムは、絵のように美しい場所でした。非常に見晴らしのよい広大な土地はなだらかに起伏しており、丘にはカシ、松、ツツジなどが生い茂り、平地は草に覆われていました。

しかし、あるのはそれだけでした。人里ははるか遠く離れており、水の入手先も10キロ離れていました。トゥリヤーナンダは、家も水も食物もない荒野の真ん中で、12人の男女を率いている自分を見い出したのです。

彼は母なる神に不満を述べました。「母よ、あなたは何をなさったのですか? これはどういうことですか? この人たちは死にますよ! 彼らはどうしたらよいのですか?」

 この言葉を耳にして女性の生徒がトゥリヤーナンダに言いました。「なぜ気を落としているのですか! あなたは神への信仰を失ったのですか!」そして彼の膝の上に、自分の財布の金を全て空けました。

トゥリヤーナンダはいまアメリカ人の進取の気性を見ました。開拓者を先祖に持つ彼女は、困難にくじけるようなハートではなかったのです。

トゥリヤーナンダは喜びました。「そうだ! あなたの言う通りである。母がわれわれを守ってくださるであろう。あなたの信仰は何と立派なこと!」

シャーンティ・アシュラムでの日々

次第に、アシュラムの生活が整い始めました。サンフランシスコから少しずつ物資が届きました。テントが張られ、井戸が掘られ、瞑想のための丸太小屋が建てられました。

祭壇が設けられ、聖ラーマクリシュナとヴィヴェーカーナンダの写真には花々が奉げられ、線香が焚かれました。

毎朝5時に、トゥリヤーナンダは旋律の美しい朗唱で生徒たちを起こしました。男たちとトゥリヤーナンダは、遠くはなれた井戸に行って沐浴をしました。この日課を、彼らは夏にも冬にも守りました。濡れたタオルが凍って固くなるほど寒い日もありました。

朝の瞑想は1時間行われました。トゥリヤーナンダは、低い瞑想的な調子で朗唱をしながら部屋に入ってきました。彼は大方聖音「オーム」を即興のふしをつけて唱え、ときどきそれは「ハリ・オーム」、または「ハリ・オーム・タット・サット」に変化しました。

「オーム」の最後につく『m』の音を、徐々に消え去るまで長く伸ばしました。上体は聖音に合わせて静かに揺れていました。彼の深く豊かな声は空間に響き渡り、生徒たちの心は寂静へと誘われました。

瞑想の終わりには再び朗唱が始まりました。それは生徒たちをこの世に引き戻す、遠くからの呼び声のようでした。

 瞑想の後、女性は朝食の支度に取りかかりました。男性は野外の仕事をしました。トゥリヤーナンダは、喜んで全ての作業に加わりました。

各自が肉体労働に勤しみ、さわやかな荒野の空気と相まって彼らの食欲を旺盛にしました。朝食は最も楽しいひとときでした。

トゥリヤーナンダは気軽な気分でさまざまな物語や冗談を言い、みなが話に加わりました。しかし彼は神や霊性以外の話題を許しませんでした。生徒たちの心は常に高く保たれ続けました。

10時から『バガヴァッド・ギーター』の学習、11時から瞑想、13時から昼食をとりました。自由時間の後、19時に夕食、20時から2時間の瞑想、22時に皆は各自のテントに引きあげました。 

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