アジャータシャトル王の苦悶
アジャータシャトル王は深い精神的苦悩に陥っていました。デーヴァダッタに操られていたとはいえ、父ビンビサーラを餓死させ、その悲痛で母をも死に追いやったのです。その罪悪感は、王の心を日夜責め立てました。
政務の忙しさに心を紛らわせる時もありましたが、政務が一段落すると、たちまち憂鬱に覆われました。悪夢に苛まれるため、夜はほとんど眠れなくなりました。
アジャータシャトル王は、自分の良心の呵責を晴らしてくれる聖者を求めました。王はその後、一度もデーヴァダッタのもとを訪れませんでした。王にとって彼はもはや尊敬すべき師ではなく、恐怖の対象となっていました。
また、ブッダの元へも訪れませんでした。アジャータシャトル王は、父ビンビサーラがブッダの敬虔な信者であることを知っていました。しかし、デーヴァダッタからの申し出を断りかねて、ブッダ襲撃のために刺客を用意し、巨象ナーラーギリの使用を許してしまいました。
デーヴァダッタの再三の襲撃を退けていることからも、ブッダこそ真の聖者であると王は感じていましたが、自分が犯した罪の大きさのために、大いに恥じ入り、ブッダのもとに訪れるのを躊躇したのです。
アジャータシャトル王は大臣たちが推薦する聖者たちを次々と訪問しました。その中には当時、宗教教団の創始者として有名で、多くの人々に崇められていた六師、プーラナ・カッサパ、マッカリ・ゴーサーラ、アジタ・ケーサカンバラ、パクダ・カッチャーヤナ、サンジャヤ・ベーラティプッタ、ニガンタ・ナータプッタもいました。
しかし、王の心を安らがせる聖者は一人もいませんでした。
満月の夜に、真の聖者を求めてブッダに会いに行く
その夜は満月でした。アジャータシャトル王は、宮廷の医師であり仏教徒でもあるジーヴァカに尋ねました。
「ジーヴァカよ、デーヴァダッタ師のその後の消息を知っているか?」
「大王様、デーヴァダッタは先日、逝去されました」
「何と、亡くなったというのか!?」
「はい、死の床にあったデーヴァダッタは、最後にブッダに会いたいと願いました。彼はブッダに懺悔し、ブッダから教えを聴いた後に息を引き取ったのです」
アジャータシャトル王はジーヴァカに言いました。「ジーヴァカよ、私をブッダのもとへ案内してくれないか。今こそブッダにお目にかかり、教えを受けたいのだ」
ジーヴァカは喜びに満ちた声で答えました。「大王様、よくぞ決心されました。あの方はまさに医王。お会いなされば、あなたの心は雲が晴れた青空のようになることでしょう。ちょうどブッダと1250名の比丘が、私のマンゴー林に滞在されています」
アジャータシャトル王は巨象ナーラーギリに乗り、大勢の家臣を従えて宮殿を後にしました。しかし、マンゴー林に近づいても、そこは深い静寂に包まれており、ブッダの大僧団の存在が感じられません。王はたちまち不安に駆られました。
「ジーヴァカよ、お前は私を罠にはめようとしているのではないか? 私を騙そうとしているのではないか?」
ジーヴァカは笑いながら大講堂を指さしました。中からは灯火の光が漏れていました。「ブッダの一行はあの中におられます。彼らは心静かな方々ばかりです」
アジャータシャトル王はナーラーギリの背から降り、ジーヴァカに従いました。音もなく坐禅する1250人の比丘たちに囲まれた中央の座に、ブッダは坐っていました。
アジャータシャトル王の質問「出家修行者の果報とは?」
ブッダが放つ金色の光に一瞬、王の目がくらみました。そしてブッダの慈愛に満ちた眼差しに触れた時、アジャータシャトル王は自分の心のしこりが溶けていくように感じました。
王はブッダに礼拝し、比丘たちに合掌してから、「世尊、ひとつお尋ねしてもよろしいでしょうか?」と言いました。
「王よ、何なりと質問するがよい」
「世尊、数多くの人々が、家を捨てて出家僧となってまで修行しています。それはいったいどのような果報があるためでしょうか?」
「王よ、もしあなたのためにまじめに働くひとりの奴隷が、立派に生まれ変わることを目指して、仕事を捨てて出家したとします。徳を積み、戒律を守り、修行を重ね、やがてその奴隷が人々の尊敬を集める比丘となったとき、あなたはその者に『おい、私のために仕えよ。朝から晩まで働け』と言えるでしょうか?」
「いいえ、そんな物言いはできません。むしろ私のほうが、彼に尊敬の念を持って挨拶し、坐をすすめ、食べ物など布施するでしょう」
「そうです、王よ、これが比丘(出家修行僧)が得る第一の果報です。比丘は出身や階級の差別から解放され自由になるのです」
アジャータサットゥ王は言いました。「素晴らしいことです! これより他に果報はございますか?」
ブッダは続けました。「比丘たちは安らぎの中に住するために、およそ250の戒律を守ります。比丘たちは殺生や暴力を止めて、あらゆる生き物を慈しみます。盗みをせずに、寛容な心を養います。性的行為に関わらず、清楚な暮らしを保ちます。
嘘をつかず、真実を語ります。無駄口を叩かず、意味のあることを語ります。悪口を口にせず、穏やかに語ります。陰口を言わず、人々が喜び和合する言葉を使います。
貪りの心を持たず、無頓着です。嫌悪の心を持たず、すべての生き物に慈悲の心を向けます。誤った見解を持たず、真理の教えに疑いを持ちません。
戒律を守ることで正しい思い、正しい言葉、正しい行いを取り、清浄な生活を送ることができます。いかなる場合でも、戒律による自己制御によって比丘たちは怖れを知りません。
戒律が様々な悪から身体と言葉と心をプロテクトしてくれるので、患いのない完全で自由な精神が生まれます。これが今すぐに得ることができるもうひとつの果報です」
五感のコントロールと五つの心の障害の克服
王は言いました。「素晴らしいことです! これより他に果報はございますか?」
ブッダは更に話しました。「王よ、目で見るとき、耳で聞くとき、鼻で臭いをかぐとき、舌で味わうとき、身体で触れるとき、心で物事を認識するとき、すなわち五つの感覚器官で外の世界を捉えるとき、コントロールしないままでいると、もろもろの欲望や悪いものが入り込んでしまいます。ゆえに比丘たちは五つの感覚器官を観察して、セルフコントロールに努めます。
比丘たちはどんな行動するときも明瞭な意識をもって行動します。衣を着るときも、鉢を持つときも、食べるときも、飲むときも、排便するときもどんな時も自分が今何をしているのかを明確に理解しているのです。
比丘たちは生涯、三枚の衣と托鉢の椀などわずかな物しか持ちません。どこへ行くにもそれだけで出かけます。強盗に襲われて失うものは何一つありませんから、樹の下で安穏に眠ることができます。翼を持つ鳥が飛ぶとき、翼だけで飛ぶように、修行僧も最低限のことで満足しています。これがもうひとつの果報です」
王は感動して言いました。「素晴らしいことです! もっとお聞かせください」
ブッダは答えました。「比丘たちは怒りと嫌悪を捨て、すべての生き物に慈悲の心を持ちます。貪りの心が消えて、わずかな物で満足する心を身に着けています。怠惰や惰眠から離れて生活し、集中力と明晰な意識を保ちます。
浮ついた心を捨てて、落ち着いて生活し、内に平静な心を持ちます。真理の教えに対する疑念もありません。こうして比丘たちは五つの心の障害を克服しています。
五つの障害が無くなった修行僧は、自己の中に喜びが生まれ、身心が軽やかとなり、至福を体得します。修行がもたらす喜びや至福は、五感の欲望を満足させる快楽とは比べものになりません。これこそ、修行で得ることのできる重要な果報です」
瞑想修行の最高の果報
王は声を震わせて言いました。「素晴らしいことです! もっと続けてください」
「五つの障害を克服した比丘は、本格的な瞑想に入ります。
まず、熟考と微細な思考を行い、欲望と不善から離れることから生じる喜楽に満ちた『第一禅定』に達します。
次に、思考が終息し、心が浄化され、サマーディによって生じる喜楽に満ちた『第二禅定』に達します。
次に、喜びに染まらないがゆえに平静であり、正念と正智があり、楽に満ちた『第三禅定』に達します。
次に、完全に苦楽を超え、心の平静さから生じた最も清浄な『第四禅定』に達します。これが修行で獲得できる果報です」
王は歓喜して言いました。「素晴らしいことです! もっとお話してくださいますか」
ブッダは述べました。「こうして、心が正しく定まり、浄化され、煩悩から解放され、柔和になり、不動に達した時、自分がはるかな過去からさまざまな世界に何度も生まれては死に、生まれては死ぬ無数の過去生を思い出し、次にどのように生まれ変わったかを思い出す『宿命通』を得ます。
そして清浄で様々なものを見通す天眼によって、生命ある者たちが、どのような行為によってどのような果報を受け、どのように死に、どのように来世に生まれ変わるかを観る『死生智』を得ます。
そして苦しみと苦の生起、苦の滅尽、苦の滅尽に赴く道を、如実に知ります。貪欲、怒り、傲慢、疑惑、嫉妬、恐怖、これらいかなる苦しみも、すべてが真理を知らないこと、根本的な煩悩である無明にその根を持っていることを悟ります。
こうして自分を閉じ込めていた輪廻という牢獄から出る扉が開かれます。『解脱』という本物の自由に到達します。解脱することが修行の最高の果報のひとつです」
アジャータシャトル王の帰依と懺悔:ブッダの救い
王は歓喜に打ち震え、立ち上がり合掌しました。
「素晴らしいことです! 素晴らしいことです! 師よ、あなたはさまざまな方法で真理を示してくださいました。倒れたものを起こすように、覆われたものを開くように、迷える者に道を示すように、闇に光をもたらすように、教えを説いてくださいました。
私は『ブッダ』に帰依します。『真理の教え』に帰依します。『出家修行者の集い』に帰依します。どうか私を終生、在家信者として受け入れてください。
尊い御方よ、私は愚かさのままに、迷いのままに、悪い心のままに罪を犯しました。私は王になりたいがために、父ビンビサーラを殺めてしまいました。デーヴァダッタへの奉仕は、かえってあなたへの反逆となりました。ブッダに懺悔いたします」
ブッダは王の懺悔を受け入れ、彼に三宝帰依を授けました。こうしてアジャータシャトル王は心の平穏を取り戻しました。王は亡き両親が天界から微笑みかけてくれるビジョンを見ました。
それからのアジャータシャトル王は、父ビンビサーラ同様にブッダの敬虔な信者となり、重要な後援者となりました。ブッダ亡き後、五百人の解脱者が集まった第一回仏典編纂会議は、王の全面的な支援で開催されたのです。
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