【完全ガイド】コーヒー・お茶との正しい付き合い方(上)はじまりの物語と歴史

Shion's collection of essays

はじめに

コーヒーや紅茶、緑茶は人間界を代表する飲み物として多くの人々に親しまれています。これらの飲み物は、元々は薬として認められ、眠気覚ましや集中力の向上、または嗜好品として、さらには社交の場での重要な役割を果たしてきました。

本ガイドでは、まず、第一に、これらの飲み物がどのような歴史的背景を持っているのか? 続いて第二に、カフェインやポリフェノール(抗酸化物質)について現代科学からの見地をご紹介します。そして締めくくりとして、ヨーガや仏教修行者がこれらの飲料とどのように付き合うべきかを探求していきます。

お茶のはじまりの物語と歴史

お茶とコーヒーは、世界中で愛される飲み物ですが、その起源と歴史には興味深い物語があります。まずは、お茶とコーヒーがどのように発見され、人間社会にどのように根付いていったのかを見ていきましょう。

中国の神農皇帝によって茶が発見された

お茶の原産地は中国です。人類との出会いの物語は何と紀元前2700年頃まで遡ります。神農(しんのう)という皇帝が薬草の研究中に偶然お茶の葉を発見したという神話が伝えられています。

当時の人々は、生水や生ものでおなかを壊し、病気や怪我を負っても、治すすべを持たずに苦しんでいました。そこで神農皇帝は自ら山に入り、目にした草木を片っ端から調べ、薬になるものと有害なものを見分けていきました。

神農の調べ方は独特でした。赤い鞭で草木を砕き、実際に口に含んで試しました。驚くべきことに彼の胴体は水晶のように透明で、外から内臓が見えました。有害な草を食べると内臓が黒くなり、毒があることがすぐにわかったのです。

あるとき神農は、一日で72もの毒にあたってひどく苦しみました。その時、白い花をつけ爽やかな香りの若葉を口に含んだところ、体内の毒が消え、体調も回復したのです。これが茶とその効能の発見でした。

こうしたことから、神農は漢方の祖神や茶祖とも呼ばれています。その後、お茶は薬として中国全土に広まり、6世紀頃から飲み物として一般化し、やがて日本へも伝播しました。

栄西と千利休

日本のお茶の歴史に貢献したのが、臨済宗りんざいしゅう(禅宗)の開祖である栄西(えいさい)です。鎌倉時代、彼は留学先の中国からお茶の種を持ち帰り、日本に茶の栽培と喫茶を広めました。栄西は日本で初めてのお茶の本『喫茶養生記』を著し、お茶の種類や薬としての効能を記し、飲用方法も記録しました。

その後、日本では禅の精神と喫茶が結びつき、16世紀には千利休(せんのりきゅう)によって茶道が確立されました。茶道は、ただお茶を飲むだけの行為ではなく、精神を研ぎ澄ませ、礼儀作法や美的感覚を育む修行の一環とされています。茶室での一杯のお茶は、侘び寂びの精神を体現し、心の平安を追求する媒介となりました。

インドのお茶の歴史とチャイ

一般的に茶の木と呼ばれるのは、学名カメリア・シネンシス(Camellia sinensis)という植物です。この植物の葉から、緑茶、紅茶、ウーロン茶、プーアル茶などのお茶が作られます。

植物としての茶の木は、古代からインドの人々に親しまれ、食用や薬用として茶葉を摂取していたようです。しかし、飲料としてのお茶が普及し始めたのは近代に入ってからでした。

その頃、ヨーロッパでは嗜好品としてのお茶(紅茶)が一大ブームを巻き起こしていました。イギリスでも茶の需要は急増しました。当初、中国から大量の茶葉を輸入していましたが、それが非常に高額であったため、イギリスは自国の植民地であるインドでお茶の栽培を行うことにしました。

その後インド各地で大規模なプランテーション農業が展開されていきました。現代でも有名な紅茶の銘柄である『アッサム』や『ダージリン』はインドの地名でもあり、イギリスの統治下にて誕生したものです。

チャイのはじまり


鍋の牛乳に茶葉を入れ、火にかけて沸騰させ、その後、ジンジャー、カルダモン、シナモン等のスパイスと砂糖を入れて一緒に煮出すのが、インドのマサラティー(チャイ)の作り方です。

イギリスの植民地政策によりインドは世界有数の紅茶生産国となりましたが、良質な紅茶はあくまで「輸出用」の商品であり、インドの一般民衆が口にすることはありませんでした。

残ったのは低品質な茶葉や粉末状になった茶葉のカスでしたが、そのままストレートティーとして飲むにはあまりにも苦みが強かったのです。もともとインドではスパイスを湯や乳で煎じて飲む習慣があり、それを紅茶と砂糖で風味付けした飲みやすいものが考案されました。こうして生まれたのがいまやインドの国民的飲料となったチャイです。

仏教の開祖ブッダはお茶を飲んだのか?

はたしてブッダ(お釈迦様)はお茶を飲んだのでしょうか? ブッダやその弟子たちが何を飲んでいたかについて、文献に具体的な記述は少ないですが、いくつかの点は明らかです。

水: 最も基本的な飲み物は水でした。ブッダは弟子たちに川や池で汲んだ清潔な水を飲むように指導しており、水が僧侶の日常的な飲み物でした。

乳製品: 一部の文献では、僧侶たちが乳製品(ミルクやバターなど)を摂取していたことが記されています。これは飲み物としての牛乳だけでなく、料理にも使用されていました。ブッダが6年間の苦行生活によって餓死寸前になっていた時、スジャータという少女が差し出した乳粥で回復した話は有名です。

では、お茶はどうでしょうか?  ブッダの時代は中国の神農皇帝の時代よりも後代にあたるとはいえ、飲用としてのお茶は当時存在していなかったと考えられます。したがって、ブッダはお茶を飲まなかったというのが正解です。

近代の大聖者ラーマクリシュナはお茶を飲んだのか?

ラーマクリシュナ(1836‐1886)当時のインドはイギリスの植民地支配下にありました。上述のように、インド各地で茶が栽培されていましたが、まだインドの一般の人々には普及していなかったようです。ラーマクリシュナの詳細な言動録『不滅の言葉(コタムリト)』においても、ラーマクリシュナがお茶を飲んだ記述はありません。

ラーマクリシュナが飲用した記録にあるのは、ガンジス川の水、ホットミルクなどで、何と原始仏教の僧侶の飲み物と変わりありません。新しい飲み物としては、信者から捧げられた炭酸水をラーマクリシュナが喜んだ記述があります。

ラーマクリシュナの弟子たちの世代になると、お茶を飲んだ記述が見られるようになります。高弟アドブターナンダはある時期、在家信者の一室に9年間滞在していましたが、その暮らしぶりは極めて簡素でした。彼の部屋は家の入り口のすぐ右手にありました。ドアはいつも開いており、中は大きながらんとした空間でした。

そこには小さなベッドと薄い床マット、かまどの上のポット以外、何もありませんでした。彼に必要な物はほとんどなかったのです。このポットで何を沸かしていたかというと、それがお茶(紅茶)だったのです。お茶だけが彼自身が許した唯一の贅沢であるかのようでした。

コーヒーのはじまりの物語と歴史

山羊使いカルディ

コーヒーの起源については諸説ある中で、エチオピアの伝説が有名です。9世紀頃、カルディというヤギ飼いが、自分の飼っているヤギたちがある赤い実を食べた後に元気に跳ね回るのを発見しました。この実がコーヒーチェリーであり、カルディ自身もその実を食べてみると、疲れが吹き飛び、気分が爽快になったのです。

カルディから話を聞いたイスラム教の僧侶が実を持ち帰ったところ、夜中の儀式で眠気と戦う彼らが、夜通し眠らずに修行に励めるようになったのです。コーヒーは睡魔を防ぐ修道院の秘薬となりました。信憑性はともかくとしてこの伝説がコーヒーの始まりとして語り継がれています。

アラブからヨーロッパ、アメリカへ

コーヒーはやがて、イスラム教の僧侶たちによって集中力を高め、眠気を除く飲み物として伝えられ、アラビア半島全域に広まりました。ヨーロッパはお茶よりも一足早く、17世紀にコーヒーと遭遇しています。瞬く間に各地にカフェが広まり、社交の場として広く利用されるようになりました。パリやウィーン、ロンドンなどの都市では、カフェが知識人や芸術家たちの集う場所となり、文化や思想の交流が行われる場となりました。

一方、アメリカでは、1773年の『ボストン茶会事件』を契機に独立運動が進展しました。この事件は、イギリスが輸出品の茶に重い税金を課したことに反発したアメリカの植民地住民たちが、ボストン港に大量の茶葉を投げ捨てたものでした。この反乱を契機に紅茶に変わる飲料としてコーヒーが好まれるようになり、やがてアメリカを代表する飲み物となりました。

聖者たちはコーヒーを飲んだのか?

もしブッダやラーマクリシュナがコーヒーを飲用したとしたら、どうような感想を述べたかはたいへん興味深いですが、人類を魅了して止まないこの漆黒の液体に出会うことはありませんでした。しかしラーマクリシュナの後継者であるヴィヴェーカーナンダは1893年に渡米しており、彼の好奇心旺盛でバイタリティあふれる性格からも、コーヒーや紅茶を飲用したかと思われます。

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