【幸不幸を超える】塞翁が馬と白隠禅師のエピソード

Shion's collection of essays

『塞翁が馬』とは?

今回は私が好きな言葉『塞翁が馬』をご紹介します。これは中国の故事から生まれたもので、自身の心に常に置いておき、行動する上でのモットーになっています。

それでは、『塞翁が馬』の意味やエピソードをわかりやすく解説します。

『塞翁が馬』は、「さいおうがうま」と読みます。ここでの『さい』は「要塞(ようさい)」や「城塞(じょうさい)」などで使われるように、「とりで」の意味を持ちます。一方、『おう』は「おきな」とも読まれ、男性の老人を表す敬称として使われます。つまり、塞翁とは「とりでに住む老人」という程度の意味です

『塞翁が馬』のエピソード

昔々、中国の北の国境のとりでに、占いにけた老人が住んでいました。

あるとき、その老人の馬が逃げ出してしまいました。この地方は良馬が多く、高値で売れることから、村人たちは老人を気の毒に思い、なぐさめに行きました。しかし、老人はなげく様子もなく、「このことが福を招くかもしれない」と言いました。

そしてしばらく経ったある日、逃げた馬が立派な駿馬しゅんめをたくさん連れて戻ってきました。皆が祝福する中、老人は首を振って「このことが災いとなるかもしれない」と言うのです。

それからしばらくして、老人の息子が駿馬に乗っている最中に落馬し、足を骨折してしまいました。村人たちがお見舞いに行くと、老人は平然と「このことが幸福を呼び込むかもしれない」と言います。

そして1年後、異民族が城塞に襲撃してきました。城塞の若者たちのほとんどが徴兵されて、戦死してしまいました。しかし老人の息子は足を負傷していたため、兵役を免れ無事だったのです。

『塞翁が馬』に学ぶ深~い教訓

『塞翁が馬』の意味は?

このエピソードから『塞翁が馬』とは、現象において何が「幸福」であり、何が「不幸」となるかを予測することは難しい、予測がつかないことを表しています。

また、「幸福」と思われる現象が「不幸」となることもあり、その逆もありうることを例える際にも使われるようになりました。

『人間万事塞翁が馬』という言葉も

また、『人間万事にんげんばんじ塞翁が馬』という言葉も存在します。人間は「にんげん」ではなく「じんかん」と呼ぶこともあります。これは「世俗」「人の世」の意味で、万事は「あらゆること」「すべてのこと」を意味します。

結局、これも『塞翁が馬』と同じ考え方を示しており、「世俗に起こるあらゆる現象は、幸か不幸かを予測できない。幸が不幸に、不幸が幸に変わることがある」ということを表しています。

私達の人生にいかに役立てるか?

私たちは不幸と思われる現象に巻き込まれると、その不幸が永遠に続くかのように感じることがあります。そのような時に『塞翁が馬』を思い出しましょう。不幸に見える現象の中にも幸福が隠れている可能性があります。少なくとも幸福に転じるまで耐え忍ぶ勇気が得られるでしょう。

逆に、私たちは幸福な状況が続くと、自惚れやおごりが生じやすくなります。こうした時こそ『塞翁が馬』を思い出し、謙虚さを保ち、兜の緒を締めておくのです。

さらに、私たちが目指すべきは、表面的な幸不幸の現象にとらわれず、ただ理想の自分に向かって瞬間瞬間を貫くことです。

【とらわれなき心】白隠禅師のエピソード

これからご紹介する白隠禅師はくいんぜんじのエピソードも、まさにこの教えを体現するものとして、とらわれのない心、自由闊達じゆうかったつ融通無碍ゆうずうむげな心境を示しています。

白隠禅師とは?

白隠禅師(1686~1769)は江戸時代中期の禅僧です。駿河国するがのくにはら(現在の静岡県沼津市)で生まれ、15歳で出家し、信州・飯山など諸国を巡りながら修行を重ね、悟りを得た後、31歳の時に原に帰還しました。

彼は広く民衆への布教に努めて、「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」と称されるようになりました。彼は衰退していた臨済りんざい宗を再興し、『臨済宗中興の祖』とも讃えられています。

白隠禅師のエピソード

さて、白隠禅師は駿河の原にある松蔭寺しょういんじに住んでいました。

この地で、一人の嫁入り前の娘が出産しましたが、父親となるべき男性が誰だかわかりません。娘の父は執拗しつように問い詰めましたが、娘は頑なに答えませんでした。

しかし、ついに父の圧力に負けてしまい、「白隠の子供である」と娘は嘘をつきました。父が敬愛する白隠禅師ならば、許してもらえると期待したのでした。

しかし、娘の思惑とは裏腹に父は激昂げきこうしました。父は松蔭寺に怒鳴り込み、「この生臭坊主!! よくもうちの娘をキズものにしてくれたな!! さあ、これがお前の子どもだ!! 受け取れ!!」と罵詈雑言ばりぞうごんを浴びせながら赤子を突き出しました。

すると白隠禅師はただ、「ほう、そうかい」とだけ言って赤子を受け取りました。翌日から白隠は懐に赤子を抱いて、「子供にミルクをお願いします」ともらい乳しながら歩き回る日々が始まりました。

これにより、白隠禅師はかつての尊敬を受けていた立場から一転し、世間での評判は地に落ち、弟子たちも愛想をつかし離れていきました。しかし、白隠は一貫して赤子の世話をし続けました。

白隠禅師は悠然ともらい乳をして歩き、一年が経過しました。娘は嘘をつくことに耐えきれず、父に真実を告白しました。驚いた父は慌てて白隠の元へ行き、今までの無礼を何度も何度も謝って許しを乞いました。

すると白隠は「ほう、そうかい」とだけ言って、何事もなかったかのように赤子を返しましたとさ。

まとめ:私達はいかに生きるか?

『塞翁が馬』は、人生の波乱含みの旅路において、物事を冷静な目で見つめ、幸福と不幸を共に受け入れる智慧を与えてくれるでしょう。人生のあらゆる状況に対して柔軟な態度を持つことができるでしょう。

『塞翁が馬』は、人生の無常さを感じさせます。何が幸福であるか、何が不幸であるかは、瞬間的な判断では決してわからないのです。私達は白隠禅師のように自分の目の前で起こる現象にとらわれることなく、自分自身の理想を貫くことが求められています。

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