【インドの英雄】ヴィヴェーカーナンダの生涯(3)インド放浪修行:アメリカ行きの決意

Ramakrishna world

キリストのように

ラーマクリシュナがこの世を去った後、若き弟子たちは出家して、バラナゴルにボロ屋敷を借り、そこをラーマクリシュナ僧団の最初の僧院としました。

兄弟弟子バブラム(のちのプレーマーナンダ)の母親の招きで、全員でアーントプル村に出かけました。リーダーであるナレンドラは兄弟弟子たちにラーマクリシュナの言葉を思い起こさせ、出家生活の栄光について説きました。

そして夜に、彼ら全員が大きなたき火を囲んで瞑想をしていた時、突然、ナレンドラは瞑想から立ち上がると、イエス・キリストの生涯を、強い熱情とともに語り始めました。そして「身を横たえる場所さえ持たなかったキリストのように生きよう」と彼らに訴えました。

その場で若者たちは聖なる火を証人として、全員が出家の請願を行ったのでした。そのときクリスマス・イブだと気づき、彼らは大きな祝福を感じました。

兄弟弟子たちはカルカッタに戻ると、家を捨ててバラナゴル僧院に入りました。彼らは経済的に貧しく、しばしば全く食物のない日もありました。

何か月もの間、ビンバというつる科の植物の葉を煮たものと、米と塩だけですごしていました。彼らは腰布二枚と普通の布一枚、共用の外出着を数着しか持っていませんでした。夜は土間にしいたむしろの上でレンガを枕にして眠りました。

しかし、これらの不自由はほとんど問題にならず、ナレンドラを中心として、彼らは厳しい苦行、瞑想、勉学、そして祈りの日々に没頭したのでした。

インド放浪修行

ナレンドラは、ラーマクリシュナの教えを実現する方法を模索していました。インドや世界の人々を救わなければいけないという使命感を感じていました。1890年、ナレンドラはインド放浪修行にでました。

当時のインドはイギリスの植民地化にありました。世界に先駆けて産業革命を成したイギリスは、機械工場で大量生産した安価な綿製品を、インドに強制的に輸出しました。これによりインドの農民が手織りする伝統的綿業は壊滅的なダメージを受けました。

1858年にイギリスはインド人傭兵(セポイ)の反乱を鎮圧し、インドの富はイギリスに吸い上げられました。インドの人々は貧困と飢餓のどん底に追い込まれました。1877年の飢饉では500万人が亡くなったといわれています。このイギリスによる支配は1947年のインド独立まで続きます。ナレンドラはそのような時代のインドを放浪したのです。

ナレンドラは、北は雪におおわれたヒマラヤの山々を歩き、さまざまな聖地を巡礼し、西部は砂漠地帯を歩き、南下しました。

その間、王侯貴族から不可触民まであらゆる階層の人々と出会いました。ナレンドラはインドの人々の惨劇を目の当たりにしたのです。

マハラジャを論破

あるときナレンドラは、アールワールのマハラジャ(王)と激しい議論を交わしました。

西洋かぶれしていたその王は、インド人の偶像崇拝をあざ笑いました。するとナレーンドラは、壁にかかっていた王の肖像画を外すと「これに唾を吐きかけなさい!」と王の宰相に迫りました。「これは単なる紙ではないですか。唾を吐きなさい!」。

そこにいた人々は皆、恐れおののきました。ナレンドラは王の方を振り向くと言いました。「この肖像画は生身のあなたそのものではありません。単なる紙切れです。しかしこの肖像画はすべての人にあなたを思い起こさせるゆえに尊ばれるのです。それと同様に、神像は信者の心に神を思い起こさせるのです」ナレンドラの大胆なふるまいと発言により、王は偶像崇拝の論理的根拠を痛烈に悟りました。

インド最南端、コモリン岬にて

ナレンドラは放浪を続け、ついにインド最南端のコモリン岬に到着しました。ナレンドラは海に入っていき、遠くに隆起している大きな岩まで泳いでいきました。岩の上でナレンドラはそれまでの遍歴修行で経験したことを回顧し、インドの抱える問題について瞑想しました。

そのときナレンドラはインスピレーションを得ました。それは物質的な豊かさを持つ西洋へ渡りヒンドゥーやヨーガの叡智を伝えること、それと引き換えに西洋文明からインドの貧困状態を救う手段を持ち帰ることでした。彼はアメリカのシカゴ万国博覧会において世界宗教会議が開催されることを耳にしていました。

その後ラーマクリシュナが、海の上を歩きながら、手招きをしている夢を見ました。師の「行きなさい!」という厳然たる声も聞こえました。

ナレンドラの信者や友人たちが、彼のアメリカ行きのためにお金を集めました。ケトリのマハラジャが、ナレンドラに船の切符と衣装一式を贈りました。また、アメリカ行きにあたって、新しい宗教名を自分につけさせてほしいと願い出ました。ナレンドラは快く了承しました。そのときについた名前がヴィヴェーカーナンダでした。

ブッダのハート

ヴィヴェーカーナンダは、兄弟弟子トゥリヤーナンダにアメリカ行きの理由を次のように語りました。

わたしはインドをくまなく歩いた。だが、ああ、兄弟よ、わたしにとって人々の貧困を見るのはつらいことだった。わたしは涙をおさえられなかった。まず最初に彼らの貧しさと苦しみを取り除かずに宗教を説くことは無益だと確信した。だからこそ、インドの貧しい人々を救う手だてを見つけるために、わたしはアメリカに行こうとしているのです

ヴィヴェーカーナンダは続けました。「君たちのいわゆる宗教がいまだに理解できないのだ」

ヴィヴェーカーナンダの顔は紅潮していました。震える手を胸において、さらに言い足しました。「だが、わたしのハートはますます大きくなり、感じることを学んだ。嘘じゃない。わたしは本当にその痛みを痛切に感じるのだ」 

こう言うと、ヴィヴェーカーナンダは沈黙しました。涙がとめどなく流れ落ちていました。

兄弟弟子のトゥリヤーナンダはこのとき思いました。「これはまさにブッダの言葉であり、ブッダのハートそのものではないだろうか

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