マヘンドラナート・グプタ(M)の生涯(2)ラーマクリシュナとの対話でプライドが破壊される

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【二度目の訪問:ラーマクリシュナとの問答】

2日後、2月28日の朝8時、Mは再びドッキネッショルを訪ねました。ラーマクリシュナはすでにMの最上級の素質に気づいていました。彼は質問しました。

「お前、結婚しているのかね?」

M「はい、しております」

するとラーマクリシュナは身震いしながら甥のラムラルに、「おお、ラムラル、彼は結婚しているんだって!」と叫びました。Mは何か恐ろしい罪を犯したかのように狼狽ろうばいしました。

ラーマクリシュナは続けました。「子供はいるのか?」

Mは心臓をバクバクさせながら「はい、おります」と、か細い声で答えました。

ラーマクリシュナはいかにも残念そうに「おお、子供までいるとは」と嘆きました。このやり取りは、Mのプライドに一撃を加えました。

ラーマクリシュナは慈悲深くⅯを眺めて言いました。「ね、お前は良い人相を持っているよ。わたしは額や目などを見ればわかるんだ。そうだ、お前の奥さんは智慧ある人かい? それとも、無智な人かい?」

Mは答えました。「妻は善良で申し分ございませんが、無智でして…」ラーマクリシュナは、不愉快そうにムッとして言いました。「では、お前は賢いというのか!」

Mは智慧とは教養のことだと思っていました。しかしこの後に【神を悟る】ことが智慧で、その他は全て無智だと知ったのです。とにかくこうしてMのプライドに二度目の打撃が加えられました。

ラーマクリシュナ「じゃあ、お前は、【形ある神】を信じているのかい?それとも【形ない神】を信じているのか、どっちだい?」

Mはたいそう驚きました。【形ある神】つまりシヴァやヴィシュヌなどの人格神、【形ない神】つまり無形無相の大実在ブラフマン、そのどちらかが真実で、どちらかが間違いではないのだろうか?

M「神は無相である、という考え方がわたしは好きです」

ラーマクリシュナ「それは結構だ。それは全く正しい。しかし同時に、これだけが正しくて、他は全て間違っている、などと考えてはいけないよ。【形ある神】も【形ない神】も正解なのだ

二つとも真実であるという主張に、Mはすっかり驚いてしまいました。Mは数多くの本を読んできましたが、そんなことはどこにも書いていませんでした。Mのプライドは三度壊されました。 

Mのプライドが完全に破壊される

しかしMはもう少し議論したいと思いました。「神が有形であることは、よろしいでしょう。しかし、土くれで作った偶像は、神ではありますまい」

ラーマクリシュナ「土くれなんかなものか! 魂のこもった聖なる像だよ」

M「土の偶像を拝んでいる人には、それが神ではないことを、そして土像の前では心に真の神を念じて拝み、土くれは拝むべきではないと、教えてやるべきです」

ラーマクリシュナ「お前達カルカッタ(コルカタ)の人々はみな同じだね。人に説教することが流行している! 他人に教えるお前はいったい何様だい? 教えてくれるのは、あの御方(神)ただ一人だよ。

たとえ偶像崇拝が間違いだとしても、全てが神への礼拝であることを神はご存知だろう。彼は喜んでそれを受ける。なぜお前たちは、自分の力が及ばないことで心を悩ますのだ? 神を悟り、信仰することを求めなさい。それがお前たちの努めだ」

 

Mは西洋の学問、哲学や文学、歴史、自然科学、政治、経済などにおいてすぐれた教養を身に着けていました。また、インド神話および詩、聖典などにも彼は精通していました。  

ジャイナ教や仏教、特に聖書を熱心に学んでいました。その結果、Mは自分自身をかなりのインテリだと思っていました。

しかしMのこの高慢、プライドは、完全に破壊されました。Mは思いました。「この方の言うことは全く正しい。他人に教える資格など、わたしのどこにあるのか? わたしは神を知っているのか? わたしは神を愛しているのか? 

何も知らないのに、他人に教えようというのは、愚の骨頂であり、恥ずべきことだ! これは数学や歴史や文学ではない。神の科学なのだ!」

ラーマクリシュナは、Mの知識が本質的には無価値であることを示し、神を悟ることが智識であることを分からせたのです。

いかにして世間で暮らすべきか?

Mは謙虚に教えを乞いました。「世間の中で、どのような心構えで生活すればよろしいでしょうか?」ここでラーマクリシュナは、世俗で暮らす人に向けた重要な教えを説きます。

「どんな仕事でもしろ。しかし心は神を思い続けよ。妻子や父母とともに住んで、彼らに仕えるがよい。お前にとってあたかも親密な人びとであるように大事に扱え。しかし心の中では誰一人自分のものではないと、しっかりわきまえよ。

金持ちの家の女中は、その家の仕事を全部する。しかし彼女の思いはつねに、故郷の自分の家にある。彼女は主人の子供たちを、まるで自分の子のように可愛がって育てる。彼らのことを『わたしのラーム』とか『わたしのハリ』と言いさえもする。しかし心の中では、彼らは決して自分のものではない、ということを百も承知だ。

カメは水中を動きまわるが、心がどこにあるか知っているか?岸辺だよ。卵を産みつけてある場所だ。この世のすべての義務を果たせ。しかし心は神を思いつづけなさい。

神への信仰を持たずに世間で暮らしていると、だんだんと心が世俗の垢にまみれてくる。災害や苦しみ、悲しみにガマンできなくなる。世間のことを思えば思うほど執着が増してくる。

手に油をすり込んでからジャックフルーツを割れ。そうでないと、ヤニが手にベタベタとくっついてしまう。神への信仰という油を手にぬってから、世間の仕事に手をつけなさい。

しかし、この神への信仰を得るには、独りになることがポイントだ。ミルクからバターをとるには、静かな場所に置いて凝乳にしなければならない。

あちこち動かすとなかなか固まらないからね。そのあと独り静かな場所に座り、凝乳をかき混ぜる。こうしてバターが出来上がるんだ。

独り静かに神を思うことによって、智慧も、信仰も身についてくる。世間のことばかりにかまけていると、心がけがれてくる。世間にはたった一つの思い『愛欲と金』しかないからね。

世間は水、心は牛乳。水の中に入れると牛乳と水は混ざってしまう。純粋なミルクは取り出せなくなる。牛乳を固めてバターにすれば、たとえ水に落としても大丈夫だ。

だから独り静かなところで神を思い、智慧と信仰というバターを手に入れることだ。このバターは世間という水に落ちても、混じらずにずっと浮いているからね」

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