【ホーリーマザー】サーラダー・デーヴィーの生涯(5)ヴィヴェーカーナンダと西洋人弟子との交流

Ramakrishna world

【使命を悟る】

ある日の夜、サーラダーはガンジス河へ続く階段に腰をおろし、その聖なる河面に映る満月を眺めていました。すると突然、後方からラーマクリシュナが現われ、そのまま河の中に溶け込んでいきました。

さらにヴィヴェーカーナンダが現われ、「ラーマクリシュナに勝利あれ!」と叫びながら、師が溶け込んだ水を、無数の人々に撒き散らしました。その水を浴びた人々は皆、解脱を得たのでした。

このヴィジョンがあまりにも鮮明だったので、サーラダーは身の毛がよだち、あんぐりと口を開けたまま、その光景を見つめていました。

サーラダーは生前のラーマクリシュナの言葉を思い出しました。「お前は今死ぬことはできないよ。人々の霊性を目覚めさせるために生きるのだ。 

わたしが助けたのはごくわずかな人だけだった。多くの者がお前のもとにやってくるだろう。その人たちに対する責任を負うことになるだろう

この経験を通して、ラーマクリシュナの肉体上の死が彼の終わりを意味するのではないと、サーラダーは確信しました。

師は大いなる目的のためにこの世に降りてきたのであり、サーラダーはその実現の一端を担わなければならなかったのです。

こうして彼女は自分自身の人生の使命を悟り、ホーリーマザー(聖なる母)としての道を歩み始めました。

ヴィヴェーカーナンダとホーリーマザー

1893年5月、ヴィヴェーカーナンダはアメリカ渡航を目前にして、これが神の意志によるものか確信を得たいと思いました。

その後ラーマクリシュナが海の上を歩きながら、「行きなさい!」と手招きをしている夢を見ました。

彼はさらなるあかしを求めて、ホーリーマザーに意見を求めました。彼女はこのプランに神の導きを感じ、次のように祝福を伝えました。「世界を征服して無事に帰っていらっしゃい。智慧の女神があなたの舌に宿りましように」ヴィヴェーカーナンダの懸念はたちまち消え失せたのでした。

西洋での布教に成功したヴィヴェーカーナンダは、1897年1月に帰国しました。ホーリーマザーの母性愛は、霊性の息子に対する誇りと喜びにあふれていました。ヴィヴェーカーナンダは彼女に平伏して報告しました。

「マザーの祝福を受けてわたしはアメリカに発ちました。かの地での成功とわたしへの尊敬というあり得ない出来事は、あなたの祝福の力によるものだと確信しています。

一人アメリカにいたときに感じたのは、師がマーと呼んでいた聖なる力がわたしを導いた、ということです」

「わたしの志は師のメッセージを広めること以外ありません。その目的のために常設の組織の発足を望んでいます。しかし思うような速さでことが運ばす、歯がゆいのです」

ホーリーマザーは言いました。「案ずることはありません。あなたが今成すことも、将来成すことも、永遠のものとなるでしょう。あなたは正にその仕事のために生まれたのですよ。

世界中から師として、神性な智慧を授ける者として称えられるでしょう。師がまもなくあなたの願いを叶えてくださいます。約束しますよ

ヴィヴェーカーナンダは安堵し、深く心を動かされました。そして1897年5月1日、彼はホーリーマザーの祝福を受けてラーマクリシュナ・ミッションを創立しました。

ヴィヴェーカーナンダ、呪いを受ける

1898年10月、カシミールへの巡礼から帰ったヴィヴェーカーナンダは、ホーリーマザーを訪ねました。彼は子供のような声で言いました。

「お母さん、あなたの師はなんて無力なのでしょう! カシミールのある聖者が、弟子の一人がわたしに懐いたからと言って怒りだしたのです。

『胃腸の病気で三日後にはこの場所を立ち去るだろう』とわたしに呪いをかけたのです。そして実際にそうなってしまいました。あなたの師はわたしを助けてくれませんでした」

マザーは答えました。「それはその聖者が修得した超能力の結果です。こうした力の示現じげんは受け入れなくてはなりません。師はその存在を認めていました。

師は破壊のためにいらしたのではありませんよ。あらゆる伝統を受け入れるためにいらしたのでした」

気持ちの治まらなかったヴィヴェーカーナンダは、「もう聖ラーマクリシュナを受け入れません」と言いました。

ホーリーマザーはからかうように言いました。「息子よ、あなたにどうすることができましょう。その髪の房さえ、師の御手のうちにあるのですから

1898年11月、ホーリーマザーはラーマクリシュナ・ミッションの常設のセンターとなるベルル僧院を訪れ、祭儀を執り行ないました。

西洋人女性たちとの交流

1898年3月、ヴィヴェーカーナンダの西洋人女性の弟子たちが、ホーリーマザーを訪問しました。マザーは彼女たちを受け入れ、食事をともにしました。

この出来事はホーリーマザーの勇気と心の広さを示していました。ヒンドゥの伝統では自分と異なるカーストの人間との会食は避けるからです。

このときの訪問者の一人であったシスター・ニヴェーディターは、のちに次のように記しています。

「マザーこそやさしい愛の権化、まさに甘美さそのものです。そしてまた少女のように陽気です。マザーは正統派バラモンの習慣を守ってきた方ですが、初めて西洋人をご覧になったとたん、こうしたすべてが溶け去ってしまったのです。

他の訪問者に倣って、わたしたちも果物を捧げました。すると誰もが驚いたことに、マザーはそれを受け取ったのです。これによってわたしたち全員の面目が施され、わたしたちの仕事の将来は何事にも勝る可能性を与えられました」

ホーリーマザーと彼女たちはその後も、親しい間柄でした。マザーは彼女たちと子供のように冗談を楽しんだり、おふざけに夢中になることもありました。 

あるとき、シスター・デーヴァターがイギリスで見つけたビックリ箱のおもちゃをラードゥ(ホーリーマザーの姪)持っていくと、ホーリーマザーは大変喜びました。そして箱を開けて人形がピューという音を立てて飛び出すたびに、彼女はその音を真似ては抱腹絶倒したのでした。

ニヴェーディターとの思い出

ホーリーマザーと二ヴェーディター

ホーリーマザーは、ニヴェーディターに特別の愛情を示し、瞑想のときには近くに座るように言いました。ニヴェーディターはこの時間を『平安の時』と呼んでいました。

「ご自身のうちに完全に沈潜されているサーラダー・デーヴィーからは、ダイナミックで強烈な力が放たれていました。まさに人生の本質に触れていたのです」

またあるとき、ニヴェーディターは「お母さん、わたしは前世ではヒンドゥー教徒だったのです。今生は師の教えを広めるために、イギリスに生まれました」と言いました。

ある日の夕方、ニヴェーディターがホーリーマザーの御足に額で触れると、マザーは彼女の頭に手をおいて祝福を与えながら言いました。「さて、これからあなたの仕事が始まるのですよ」

ニヴェーディターはその生涯をインド女性の教育のために捧げました。1911年、ニヴェーディターが亡くなった時、ホーリーマザーは涙を流しました。

「ニヴェーディターの信仰はなんと真摯であったことでしょう! どんなことでも決して苦にせずわたしに尽くしてくれたのでした。

よく夜にやってきました。わたしの眼に明かりが当たって眩しそうにしていると、ランプの周りを紙のかさで覆ってくれました。

心をこめてわたしに平伏して、ハンカチでわたしの足の塵を取ったのでした。わたしの足に触れるのさえ躊躇ちゅうちょしていたかのようでした」

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