燃え盛る炎を前にして
1885年、シャラトは大学の一般教養課程を卒業し、コルカタ医科大学に進学しました。しかし運命は、シャラトを医者にはしませんでした。ラーマクリシュナが病に倒れたのです。師が療養のためにカーシープルに移ると、シャラトは兄弟弟子たちとともに住み込みで師の看病をしました。
シャラトの父親はこの成り行きに驚き、心配しました。彼の家の師は、有名な学者であり、タントラのさまざまな儀式に精通しているジャガンナータ・タルカーランカールでした。父は思いました。「優れた師をさしおいて、シャラトが別の人物に従っていいのだろうか?」
シャラトの父はある日、ジャガンナータをカーシープルに連れて行きました。彼とラーマクリシュナが話をするうちに、いかに後者の知力が劣っているか、シャラトの前で明らかになるだろうと考えたのです。
しかし話を始めるや否や、ジャガンナータはすぐに自分が燃え盛る霊性の炎の前にいることを悟りました。彼はシャラトの父に「あなたの息子さんはこんな師を持って幸運ですよ」と伝えました。
托鉢行の体験
約一年続いたラーマクリシュナの病気は、若き弟子たちを選抜し、聖なる僧団を発足させるきっかけになりました。シャラトもそのメンバーとなり、懸命に師に奉仕しました。師が病気になったのは、出家の訓練を彼らに受けさせるためだったとも言われています。
ある日、師は若い弟子たちに托鉢行をするよう命じました。彼らは喜んで従いました。ところがその立派な容姿のせいで、弟子たちは良家の出だと見て取られ、ある者は気の毒がられ、ある者はののしられ、ある者は同情されました。
シャラトは後に、彼の体験を笑いながら話しています。「ある小さな村に入って、ちょうど托鉢の僧がするように、神の御名を唱えながら一軒の家の前に立ちました。わたしの呼び声を聞いて、かなり年配の女の人が出て来ました。
そしてわたしの強靭な体を見ると、すぐさま侮辱し始めました。『そんな丈夫な体をしていながら物乞いで生活して、あんた、恥ずかしくはないのかい。せめて電車の車掌にでもなったらどうかね』こう言いながら、彼女はドアをバタンと閉めてしまいました」
1886年1月1日のラーマクリシュナの奇跡、そのときシャラトは?
1886年1月1日、ラーマクリシュナは体調が少し良くなり、庭を散歩しました。その日は多くの信者たちが集まっていました。師はゆっくりと庭を歩き、信者たちはその後についていました。突然、ラーマクリシュナは在家の弟子ギリシュに尋ねました。
「ねえギリシュ、皆に話せるような神の化身としての何かを、わたしの中に見つけたかな?」
ギリシュは早くから師が神の化身であると主張していたのです。ギリシュは師の前にひざまずき、手を組んで敬意を表わし、心をこめて言いました。
「主について何か言えるようなわたしでしょうか? ヴィヤーサやヴァールミキのような聖仙たちでさえ、主の栄光を測ることができたでしょうか?」
ラーマクリシュナは彼の言葉に深く心を動かされました。彼はギリシュを祝福し、信者たちに告げました。
「ほかに何を言うべきことがあろうか? 君たちすべてを祝福する。輝いていなさい!」
師は突然サマーディに入り、信者たち一人ひとりに触れながら祝福され、覚醒のエネルギーを注ぎました。信者たちそれぞれが超越的な意識となり、ある者は深い瞑想に入り、ある者は神秘体験をし、ある者は神の歓喜に浸りました。師の奇跡に気づくと、近くにいた信者たちはこぞって祝福を受けようと駆けつけました。
このとき若き弟子たちの多くは、日夜の奉仕に疲れて午睡を取っていました。しかしシャラトとラトゥ(後のアドブターナンダ)だけは起きていて、洗濯をしていました。信者の一人が彼らに気づき、早く来るように呼びかけました。しかし二人は行きませんでした。
なぜなら師がずっと寝込んでいたために、汚れていたシーツを取り替える千載一遇のチャンスだったからです。シャラトとラトゥは師のシーツを洗い、日に干すという作業に没頭していました。シャラトにとって、師が不快な汚いシーツで寝ていることが心配であり、清潔なシーツで師に快適に休んでいただくことが、何よりも重要だったのです。
「なぜあのとき師の祝福を受けに行かなかったのか?」と尋ねられ、シャラトは答えました。「どうしてそのような必要がありますか。わたしにとって師は、最愛の者よりももっと大切なお方です。わたしに必要なものは何であれ、師の方から与えてくださるに決まっています。だから少しも欲しいとは思わなかったのです」
バラナゴル僧院にて
ラーマクリシュナが逝去しました。シャラトが家に帰ってきて両親は安堵しました。しかしナレンドラたちがやってきては、現世放棄の素晴らしさと師の理想について語り合っていました。シャラトは発足されたボラノゴルの僧院を訪れるようになりました。
父親はシャラトを説得しました。「聖ラーマクリシュナが生きているときは、看病したりお仕えしたりして一緒に暮らしても構わなかった。だが今はもういないのだよ。なぜ家でじっとしていないのだ」
説得に効果がないと見て取るや、息子を一室に閉じ込めてしまいました。それでもシャラトは少しも動揺しませんでした。
彼は、瞑想やその他の修行をしてときを過ごしました。兄に同情した弟が部屋のドアを開け、彼はボラノゴル僧院へ逃れました。
そこで彼は正式に出家し、サーラダーナンダと呼ばれることになりました。両親はこれを知るとバラナゴルにやって来ました。今回は彼に完全な自由を与えました。
出家修行僧たちは、長い時間を祈りと瞑想に費やしました。彼らは生活上の快適さを捨てて、極度に質素に暮らしました。
教学、討論、賛歌の歌唱は彼らの日課の一部となっていました。深夜、ヴィヴェーカーナンダとサーラダーナンダは、師が荼毘に付された場所や、ドッキネッショルに出かけては、瞑想していました。
兄弟弟子のアドブターナンダはバラナゴル僧院での様子をこう回想しています。
「大勢で共同生活をしていると、意見の相違によって、人間関係がぎくしゃくしてくることはよくあることだ。しかし不思議なことに、それは僕たちには一度も起こらなかった。僕たちがお互いを批判し合わなかったというわけではない。
というより、あまりに頻繁に、ざっくばらんにやっていた。でも次の瞬間には、愛がすべての悪感情を払しょくしてしまっていた。ときどき、あまりに辛辣な批判に、頭に血が上る者もいた。
でもみんな、瞑想や祈りを続けていたおかげで、辛辣な言葉は僕たちの心にしこりを残さなかった。兄弟シャラトは忍耐において僕たちの中で誰よりも優れていて、それはあまりに素晴らしかったので、ナレンはユーモアを込めてこう言った。
『彼、シャラトはベレフィッシュの血を引いている。いったい彼は、熱くなることがあるのだろうか?』」
サーラダーナンダは、離れて聞くと女性の声に間違われるような、甘い音楽的な声をしていました。ある夜のこと、近所の数人が、バラナゴル僧院に女性がいるはずがないのに、と好奇心にかられて、境の壁を乗り越えて入ってきました。真実が分かると、彼らは恥じ入って素直に謝りました。
サーラダーナンダがその声で、聖典を朗唱したり聖歌を歌ったりすると、そばにいる者は霊的に高揚するのを感じました。後年、彼が年をとってからも、ラーマクリシュナやヴィヴェーカーナンダの生誕祭では、あふれる愛と信仰から一、二曲歌ったものでした。
【オススメ本】ラーマクリシュナの直弟子16人の伝記集
コメント