バクティヨーガ(信仰のヨーガ)を行う者の願いは、神に直接お会いすることでしょう。この願いを完全に成就したのがラーマクリシュナでした。
ヴィヴェーカーナンダは10代の頃、様々な宗教指導者にズバリ質問しました。「あなたは神を見たことがありますか?」その問いに「ある」と答えた者は一人もいなかったのです。
ですがラーマクリシュナの答えだけは違いました。「あるよ。お前を見るようにハッキリとね。しかも話しかけることもできるのだ」と。
ところで神に会うとはリアルにどういうことなのでしょうか? 当ブログではすでにラーマクリシュナの生涯を紹介しています。そこではラーマクリシュナがカーリー女神を見神する場面が描かれています。
それでは他にも見神した良い例はあるでしょうか? はい、これからその素晴らしい実例として、ラーマクリシュナの女性信者ゴーパーラ・マーの生涯をご紹介します。
幼児期の結婚、すぐに未亡人に
インドの伝統では幼児期の結婚はけっして珍しくありませんでした。ホーリーマザー(サーラダ・デーヴィー)がラーマクリシュナと結婚した時は、わずか5歳でした。とはいえこれは結婚というより婚約に近く、結婚の儀式を終えた幼い花嫁は適齢期になるまで実家で過ごします。
アーゴルマニ(後のゴーパーラ・マー)が結婚したのは9歳の時でした。しかし、すぐに未亡人となりました。よって彼女は夫婦生活を経験することなく、もちろん子供もいませんでした。
彼女はブラーフマナ(聖職者)階級で、信仰心が篤く、観念的で融通が利かない性格をしていました。伝統的なしきたりや宗教的なルールを、極端なぐらいに厳格に守っていたのです。
アーゴルマニは信条として他者からの金銭的な援助を受けませんでした。彼女は宝石と夫の財産を売り払い、これを公債の投資に当てて、そのわずかばかりの利息で清貧の暮らしをしました。
また、アーゴルマニは家の師からゴーパーラ・マントラを授けられていました。ゴーパーラを自分のイシュタ(理想神、個々人が特別に礼拝する神)とし、常に熱心な礼拝をささげていました。ゴーパーラとは赤子の姿のクリシュナ神のことです。
アーゴルマニの長年のルーティンもまた厳格なものでした。まず午前2時に起床して身を清めました。
3時ごろから8時か9時まで、ジャパ(マントラを連続して繰り返し唱える)などの修行をしました。それから沐浴をして、近所のカマルハティ庭園寺院に詣でて、食物供養などのおつとめをしました。
正午には一日一食の食事を摂り、少しばかり休むと再びジャパを再開しました。夕方の寺院の礼拝に参列し、その後、また夜遅くまでジャパをしました。これが終わると少量の牛乳を飲んで、少しだけ眠りました。
信仰の深まりとともにアーゴルマニは、カマルハティ庭園寺院に住みたいと熱望しました。彼女は親しくしていた寺院の地主の妻から、女性信者用の宿舎の一室が与えられました。
その部屋は庭園の南側にあり、三つの南に面した窓からはガンジス河が見えました。アーゴルマニは自室に坐り聖なるガンガーを眺めながら、早朝から深夜まで30年にわたりゴーパーラ・マントラを唱え続けたのです。
ラーマクリシュナとの出会い
アーゴルマニが初めてドッキネッショルのカーリー寺院を訪れたのは、1884年秋のことでした。地主の妻も一緒でした。
すでに聖ラーマクリシュナの名はコルカタでは広く知られており、このたぐいまれな聖者の噂を二人は耳にしていたのです。そのときアーゴルマニはおよそ60歳、ラーマクリシュナは48歳でした。
ラーマクリシュナは二人を温かく迎え入れ、称賛しました。
「何と美しい表情をしているのだろう! 至福と信仰の大海に漂っているようだ。彼女たちの瞳は神への愛に満ちている。鼻につけたティラカ(聖なる印)までも美しい!」
アーゴルマニは初対面から、ラーマクリシュナの魅力に強烈にひきつけられました。しかしその理由は自分でもよくわかりませんでした。
最初の訪問から二、三日ジャパを行なっているうちに、アーゴルマニは再びラーマクリシュナに会いたくてたまらなくなりました。貧しい彼女はわずか数パイサ(インドの通貨、1パイサ=1/100ルピー)の干からびたサンデーシュ(菓子の一種)を用意すると、急いでドッキネッショルに向かいました。
ラーマクリシュナは彼女を一目見ると叫びました。「おお、やって来たね! 持ってきたものをおくれ!」しかしアーゴルマニは、自分が持ってきた菓子を師に差し出すことを躊躇しました。
他の信者たちの供物は上等で、自分のはあまりにお粗末だったからです。彼女がおずおずと差し出したサンデーシュを、ラーマクリシュナは大喜びで召し上がり、言いました。
「どうして菓子に金をかけなければならないのだ? 甘いココナッツボールを作って、ここに来るときに一つ二つ持ってくるといい。そうでなければ、自分で作ったいつもの料理を少し持っておいで。
かぼちゃの葉っぱを混ぜ込んだのや、ジャガイモ、なす、鳥の足、小さな野菜の団子のカレーでもいい。あなたの手料理が食べたいのだ」
このようにラーマクリシュナはアーゴルマニに、神や信仰の話ではなく、アレコレと食べ物の話ばかりしました。アーゴルマニは、心ひそかに思いました。
「おかしなサードゥのところに来てしまった! 食べ物のことしか言わない。わたしは貧しい未亡人。どこでそんなご馳走を作れますか? もうたくさんだ! もう来るのはやめよう」
ところがアーゴルマニカーリー寺院の門を出ようとした瞬間、彼女は一歩も動けなくなりました。まるでラーマクリシュナに引き止められているかのようでした。アーゴルマニはこの場を離れるように自分に言い聞かせ、やっとのことで帰ることができました。
数日後、アーゴルマニは再びラーマクリシュナを訪ねました。今度はごた混ぜのカレーを携えて、約5キロの距離を歩きました。
彼女の姿を見るなり、師はやはり食べ物をほしがり、そのカレーを召し上がりました。「何て美味しいのだ! まるで甘露のようだ!」
ラーマクリシュナが喜ぶ姿を見ると、アーゴルマニの頬に涙があふれました。「わたしが貧しいことをご存知ゆえに、このささやかな捧げ物をお褒めくださっているのだ」と思いました。
その後、二、三ヶ月間の間、アーゴルマニは足しげくラーマクリシュナのもとに通いました。特に気に入った料理ができると、必ず師のもとへ運びました。師はことのほか喜ばれて、クレソンのスープ、カルミ草のカレーなどを、新たに作って持ってくるように頼みました。
「アレを持って来い、コレを持って来い」と師の要望を聞くうちに、彼女はうんざりしてしまいました。
「おお、ゴーパーラ、これがあなたへの祈りの答えなのでしょうか? 食べ物ばかりほしがる聖者のところへ連れてこられるなんて。もうここへは来ませんよ」
しかしカマルハティに帰った途端、抗いがたい力に引かれて、「いつまた師をお訪ねできるだろうか」という思いに駆られるのでした。
ゴーパーラ、現わる!
1885年の春、アーゴルマニはいつものように早朝3時からのジャパにとりかかりました。それが終わると呼吸法を行ない、修行の果報をゴーパーラに捧げようとしました。するとそのとき、彼女の左側に、ラーマクリシュナが優しく微笑んで座っていることに気づきました。
「これは一体どういうことでしょう? こんな時間に、どうやってここへいらしたのかしら?」アーゴルマニが勇気を出してラーマクリシュナの腕に触れると、師の姿は消えてしまいました。
そしてそこに、彼女のイシュタであるゴーパーラ、10ヶ月くらいの大きな赤子の姿のクリシュナが姿を現わしたのです。それはそれは、言葉では言い表せない美しさでした。
ゴーパーラはアーゴルマニのほうに這ってきて、片手を上げると「お母さん、バターをちょうだい」と言うではありませんか。彼女は、この度肝を抜かれる出来事に感極まり、当惑し、叫び声をあげました。そして泣きながら言いました。
「坊や、わたしは貧しい未亡人です。何を食べさせてあげればいいのでしょうか? バターやクリームはどこから持ってきたらいいのでしょうか?」しかしゴーパーラのおねだりは止まりませんでした。
アーゴルマニはすすり泣きながら立ち上がると、吊り下げたかごから乾いたココナッツボールを持ってくると、ゴーパーラの手に乗せました。もはやジャパどころではありませんでした。ゴーパーラは、アーゴルマニの数珠をもぎ取ったり、彼女の肩に乗ったり、部屋中を這い回ったりしました。
夜が明けると、アーゴルマニはゴーパーラを抱きかかえたまま、狂人のように走ってラーマクリシュナの元へ向かいました。彼女がドッキネッショルに着いたとき、陶酔状態に入ったままの彼女の髪は乱れ、目は据わり、着物のすそを引きずっていました。周りのことなど、すっかり目に入らない様子でした。
そんな姿のアーゴルマニを見て、周りの者はすっかりあっけにとられました。ラーマクリシュナは、彼女を見ると直ちにサマーディに入りました。
彼女がそばに座ると、師はアーゴルマニのひざの上に、子供のように座りました。彼女の眼から滝のように涙が流れ落ちていました。
アーゴルマニは、持ってきた菓子を、自分の手でラーマクリシュナに食べさせました。信者たちは、仰天しました。普通、サマーディ状態に入った師が、女性と接触することはなかったのです。
しばらくすると、ラーマクリシュナは通常意識を取り戻しました。しかし彼女はまだ抑えられぬ歓喜状態にあり、有頂天になって「ブラフマーは踊る! ヴィシュヌは踊る!」と繰り返しながら、部屋の中で踊りだしました。
ラーマクリシュナは信者たちに、微笑んでこう言いました。「ごらん、すっかり至福に飲み込まれている。彼女の心は今、ゴーパーラの住処にあるのだ」
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