イスラム教、キリスト教の真理を悟る
ラーマクリシュナの次の願いは、他の宗教の真理を悟ることでした。
1866年、一人のイスラム教の修行者がカーリー寺院にやってきました。ラーマクリシュナは、「イスラムの信者がどのようにして、彼らの信じる唯一神に到達するのかを見たい」と思い、教えを乞いました。
ラーマクリシュナは完全にイスラム教徒になりきりました。アッラーの御名を唱え、イスラムの衣装をまとい、規則正しくイスラムの礼拝を行いました。『コーラン』に記されている無形の神に精神を集中しました。
すると三日後に、長いひげをはやし、おごそかな風貌をした光り輝く人が近づいてきたかと思うと、すうっと彼の体内に入りました。それはまさに偉大な預言者ムハンマド(マホメット)のヴィジョンであり、その瞬間ラーマクリシュナはブラフマンと合一したのでした。
ラーマクリシュナは今度は、イエス・キリストとキリスト教に興味を持ちました。ラーマクリシュナは三日間、イエスとその教えに没頭しました。三日目の夕刻、色の白い切れ長の目の美しい人が歩いてくるのが見えました。「彼はイエスだ!」と直感しました。
イエスはラーマクリシュナを抱擁し、彼の身体の中に入りました。驚いたことに、キリスト教もまたラーマクリシュナが到達していたゴールと同じところに導いたのです。
こうしてラーマクリシュナは、世界のすべての宗教は同じ目的を持っていること、神に至る道において、礼拝の方法や教えの言葉こそ異なりますが、せんじつめれば同じ一なる神(真理)への道であるとの、ユニバーサル(普遍的)宗教に到達したのでした。
ラーマクリシュナは後にこのように語っています。
「一つの池に四つの沐浴場があるとする。一つの沐浴場でヒンドゥー教徒は水を飲んでジョルと呼び、もう一つの場所でイスラム教徒は水を飲んでパニと呼ぶ。また別の場所でキリスト教徒はそれをウォーターと呼び、またアキュアと呼ぶ者もいる。
四つとも一つのものなのに、違いは名前だけにある。あのお方のことをある者はアッラーと呼び、ある者はゴッドと呼ぶ。ある者はブラフマン、またはカーリーと呼ぶ人もいる。ラーマ、ハリ、イエス、ドゥルガーというような名で呼ぶ者たちもいる」
大聖者ラーマクリシュナの日常と伝道
大聖者となったラーマクリシュナに母なる神は語りました。「おまえとわたしは一つ。おまえは信仰と愛を持ってこの世に住みなさい。人々の幸いのためにね。
信者たちが集まってくるよ。純粋無欲な信仰者たちもここへやって来る」
夕方、聖堂から鈴やほら貝の音が鳴り響くと、ラーマクリシュナは屋上に上がり、大声で叫びました。「オーイ、わたしの息子たち、おまえらはいったいどこにいる? おまえたちなしにはわたしはとても生きていられないぞ。はやく大急ぎでやってこーい」
ラーマクリシュナにとってもっとも親密な信者たち、すなわち彼の死後、力を合わせて師の教えをインド、世界へと広めることになる弟子たちが集まったのは、彼が50歳で亡くなる前の数年間のことでした。
その頃のラーマクリシュナには、もはや以前の狂人のような様子はありませんでした。やさしく歓びに満ち、しかも5歳の子供のように無邪気でした。しかも、すぐにサマーディに入ってしまうのです。サマーディから戻ると恍惚として「マー、マー」と言っていました。
ラーマクリシュナはカーリー寺院の片隅に住んでいました。ベランダからはすぐに聖なるガンジス河の流れが見えました。彼の部屋の中には大きな寝台と小さな寝台が並べてあり、信者たちと話をする時は小さな方に座るのが習慣でした。
壁にはいくつもの絵がかけられていました。ヒンドゥー教の神々や、ブッダの肖像、イエスが水におぼれているペテロを救っている絵などです。ラーマクリシュナは、早朝に起きると、ひとつひとつの絵にやさしくあいさつをしました。
ラーマクリシュナの部屋の扉は、あらゆる人に対して開かれていました。朝から晩まで訪問を受け、彼らに教え、語り続けました。神について、信仰について、智慧について、自分の体験について語りました。
豊富なユーモアや絶妙なたとえ話を交えながら、途中で生まれつきの美声で賛歌を歌い、来ている人にも歌わせました。
老若男女、貴賤や身分を問わず一切の垣根を設けることはありませんでした。熱心な人は泊まり込んでいくこともありました。日曜日や祭日は、訪問者であふれました。またコルカタの信者たちの邸宅を訪れ、応接間に集まる人たちに真理の言葉を語りました。
振る舞いは子供のようでも、その智性は鋭く、彼の説法は多くの近代西洋教育を受けたエリートたちを驚かせました。ラーマクリシュナは正式な学問をほとんど受けていませんでしたが、深いサマーディと悟りにより、真理を直接つかんでおり、それを人々に説き続けました。
ラーマクリシュナは、在家の信者たちには、世俗の務めを果たしながら、神への愛を実践することを勧めました。
そして、まだ世俗に汚されていない純粋な若い弟子たちには、特に『異性と金』に関わることなく、一切を放棄して、ただ神への愛だけに生涯をささげることを命じました。
若い弟子の中でも、ラーマクリシュナが自分の後継者と認め、最も愛した弟子が、ナレンドラ、後のヴィヴェーカーナンダです。彼は師の思想を欧米に広め、『ラーマクリシュナ・ミッション』を創設し、若者たちを鼓舞したインドの国民的英雄です。
また、ラーマクリシュナが霊性の息子として愛したのがラカールこと、のちのブラフマーナンダです。彼はラーマクリシュナ・ミッションの初代僧院長として、ヴィヴェーカーナンダ亡き後、組織をますます発展させた人物です。
ラーマクリシュナの最期とその後
大聖者ラーマクリシュナの存在が世に知られると、人々は群れをなしてやってきました。
「どうすれば神を見ることができるのでしょうか?」との問いに、ラーマクリシュナは次のように答えています。
「強烈な渇仰の心で主に泣きつくのだ。そうすれば必ず神を見る。人々は妻子のために水差しいっぱいほどの涙を流す。金のためには涙の海を泳ぐ。しかし、誰が神を求めて泣くのか。本当に泣いて彼に泣きつきなさい」
ラーマクリシュナに休息はありませんでした。彼は24時間のうちの20時間、それも一日ではなく幾月も幾月も教えを説き続けました。この恐ろしい緊張は彼の健康を破壊しました。のどにガンを患ったのです。それでも彼は説くことを止めませんでした。
ラーマクリシュナはこう言いました。「かまわないのだよ。たとえ犬に生まれ変わると言われてもよい。たった一人の魂でも救うことができるのならば。わたしはひとりを救うために肉体の二万をも喜んで捨てよう」
そして徐々にラーマクリシュナの体は、病に犯されていきました。病の床に伏しながらも、彼はベッドの上から、教えを説き続けました。
師の体がいよいよ長くもたないという状況になってきた時、ナレンドラや他の弟子たちは、いっそうの熱意をもって、修行に打ち込むようになりました。ある時、ナレンドラはラーマクリシュナにニルヴィカルパ・サマーディを体験したいと懇願しました。
しかしラーマクリシュナは厳しくしかりました。
「恥を知りなさい! おまえはそんなつまらないものを求めているのか。おまえは大きなバンヤンの樹となり、無数の人々がその木陰で休息できるようになると、わたしは思っていた。それなのに今おまえは、自分だけの解脱を求めている」
ラーマクリシュナの心の偉大さを知ったナレンドラは、激しく涙しました。
ラーマクリシュナが、言葉をささやくこともできなくなったある時、一枚の紙に文字を書いて、ナレンドラに渡しました。それには「ナレンドラよ、他の人々を導いておくれ。お前はそれをしなければならない。おまえの身体がそうするでしょう」と書かれていました。
ラーマクリシュナが亡くなる数日前、師は枕元にナレンドラを呼び、彼をじっと見つめながら、深い瞑想に入りました。ナレンドラは、電流にも似た名状しがたい力が、体の中に入って来るのを感じました。
ラーマクリシュナは言いました。「おお、ナレンよ。今日、わたしは自分の持っているすべてをおまえに与えた。今、わたしは無一物の乞食僧に過ぎない。おまえに授けたその力で、おまえはこの世の偉大な仕事を成し遂げなさい」
1886年8月16日、ラーマクリシュナは愛するカーリー女神の名を三度唱え、最後のサマーディーに入りました。頭髪は逆立ち、眼は鼻頭に釘付けになり、顔は歓喜に輝きました。こうしてラーマクリシュナはこの世を去りました。
残された弟子たちはよりいっそうの激しい修行に励み、後に『ラーマクリシュナ・ミッション』が創設されました。
ナレンドラは、無一物でインド中を放浪修行した後、ヴィヴェーカーナンダと名のり、アメリカへ渡り、世界宗教会議に出席しました。そこでの素晴らしい演説で聴衆の拍手喝采を浴び、世界一の宗教家と評されました。その後もヴィヴェーカーナンダはアメリカやヨーロッパで布教を続け、ヨーガやラーマクリシュナの教えを世界に広めました。
また、ラーマクリシュナの近しい弟子であったマヘンドラナート・グプタは、晩年のラーマクリシュナの5年間の説法や出来事を、その驚異的な記憶力により克明に文章化しました。後にそれは『不滅の言葉(ラーマクリシュナの福音)』として世界中で出版されました。
このようにしてラーマクリシュナは、その死後に、ブッダ(お釈迦様)、シャンカラに並ぶ『インド三大聖者』の一人として仰がれるようになったのです。
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