【名脇役】ヨーガーナンダの生涯(4)

Ramakrishna world

【ヨーギン、ホーリーマザーからイニシエーションを受ける】

ラーマクリシュナが肉体を捨てられたことは、一同を深い悲しみに投げ込みました。在家信者バララームは、サーラダ・デーヴィーのために、聖地巡礼の旅を用意しました。彼女に同行したのは女性の信者数名と、ヨーギン、ラトゥ(後のアドブターナンダ)、カーリー(後のアベダーナンダ)でした。一同はヴァラナシを経て、ヴリンダーバンに1年間滞在しました。

聖地でのある日、ヨーガーナンダの前にラーマクリシュナのヴィジョンが現われました。師は彼にサーラダ・デーヴィーからイニシエーションを授かるように指示しました。

またサーラダにもラーマクリシュナが現われて、同様の指示をしました。最初サーラダはこのヴィジョンが自分の錯覚かと思いました。慎ましく謙虚なサーラダーは「自分が師のような振る舞いをするなんてとんでもない」と考えたのです。しかし、このヴィジョンは三日間続きました。

ついにサーラダはイニシエーションを執り行いました。ヨーギンは彼女の最初の弟子となりました。これがサーラダ・デーヴィーの、後にホーリーマザーと呼ばれる人生の幕開けとなったのです。

ヨーガーナンダの苦行時代

聖地巡礼の後、ホーリーマザーはラーマクリシュナの実家であるカマルクプルで暮らしました。ヨーガーナンダは彼女を送迎した後、バラナゴル僧院に戻りました。

僧院にはラーマクリシュナの若き弟子たちが集まっており、神の悟りをめざして激しい修行をしていました。ヨーギンもここで正式に出家してヨーガーナンダとなり、やがて放浪修行の旅に出ました。

1888年、苦行生活を送っていたヨーガーナンダは、聖地アラハバードで悪性の天然痘に罹って倒れました。バラナゴルにその知らせが届くや否や、皆が大変心配しました。ただちに兄弟弟子のほぼ全員がそこに行き、彼の看病をしました。

天然痘は性質の悪い病で、ヨーガーナンダに強い痛みを与えました。兄弟弟子たちは、ヨーガーナンダの苦痛を和らげるために手を尽くし、昼夜を問わず看病しました。

1891年、ヨーガーナンダは聖地ヴァラナシの人里離れたガーデンハウスで苦行に励んでいました。睡眠は2、3時間で通しました。無一文の彼の乏しい食事は3、4日毎に托鉢で得る干からびたパンでした。そのパンを水に浸して食べたのした。

そのころヴァラナシでは大暴動が起こりました。しかしヨーガーナンダはその地でたいへんな尊敬を受けていたので、どちらの側の暴徒たちも、彼の邪魔をしませんでした。

ただヨーガーナンダの苦行は彼の肉体にとって余りにも過酷だったので、ひどい赤痢にかかり、健康は完全に損なわれてしまいました。そして二度と健康体に戻ることはなかったのです。

サーラダー・デーヴィー(1853-1920)

ヨーガーナンダのホーリーマザーへの献身

ホーリーマザーがコルカタに戻ると、ヨーガーナンダも彼女に仕えるために戻ってきました。ラーマクリシュナの信者のほとんどは、サーラダー・デーヴィーを師の妻として敬意を払いましたが、その偉大さを理解していませんでした。彼女は非常にシャイで、謙虚なため、彼らにはただの田舎育ちの素朴な女性としか映らなかったのです。

早くから彼女の神聖さに気づいた人もいました。その数少ない一人がヨーガーナンダでした。彼はマザーの中に師ラーマクリシュナが存在しているのを見たのです。

ヨーガーナンダは師に完全に帰依して仕えました。そして今度は自分の生涯をホーリーマザーへの奉仕に捧げようと決心しました。

彼のマザーへの献身は弟子たちの間で語り草になるほど素晴らしいものでした。ヨーガーナンダは彼女が心地よく暮らせように心を砕きました。そして自分の身の回りのことは一切考えませんでした。

ホーリーマザーの暮らしは、ラーマクリシュナと比べ、試練の多い複雑なものでした。ラーマクリシュナは出家僧として、家族のもめ事に関わらずにいられました。彼は人生における戯れを見るのは大好きでしたが、決してその迷路に迷い込むことがないように十分気をつけていたのです。

しかしホーリーマザーはまさに迷路のただ中にいました。血縁関係のない男女を含む大家族を抱えていました。そのなかには性悪で嫉妬深く、強欲な者たちもいました。

ヨーガーナンダはホーリーマザーの借家入り口にある部屋で暮らし、コルカタ滞在時の彼女の便宜をすべて図りまさした。彼女の家族の用件をこなし、信者からの贈り物や信者の訪問を管理しました。

ホーリーマザーは彼の奉仕を絶賛されていました。彼はマザーの護衛であり、マザーの公私両面の重荷のかつぎ手でした。

ヨーガーナンダが彼女のために贈ったキルトはすり切れてぼろぼろになるまで使い込まれました。最初はカバーを変えて新しい綿に詰め替えようかと思ったマザーも、親愛なる弟子からの贈り物の見かけが変わってしまうと、考え直したのでした。

ホーリーマザーが実家ジャイラームヴァティを離れて他の場所に行くときには、ヨーガーナンダが影のように着き従いました。1888年11月、彼はマザーの聖地プリーへの巡礼にお供しました。

1890年にはベルルに近いグーシュリで、1893年にはベルルの二ランバル・バーブの家で、1894年にはカイルワールで、1896年にはコルカタのシャルカルバリ横丁の借家で、1897年にはボスパラ横丁の別の借家でヨーガーナンダはホーリーマザーに仕えていました。

ホーリーマザーは後にヨーガーナンダのことを次のように回想しています。

「ヨーギンほどわたしを愛した者はいません。だれかが彼にいくらかのお金をわたすと、彼は『マザーが巡礼に行くときのために』と言って、それをとっておきました。彼はいつもわたしのそばにいました。他の僧たちは、彼が女ばかりのこの家にいるものだから、ときどき彼をからかいました」

「彼が亡くなるときに『ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ、そして聖ラーマクリシュナ……。マザー、彼ら全部がわたしを迎えに来ました』と言ったのです」

ラーマクリシュナ生誕祭を主催する

1895年から1897年まで、ヨーガーナンダはドッキネッショルのカーリー寺院で聖ラーマクリシュナ生誕を記念する公式の祝典を主催しました。この祭典には非常に多くの人々が詰めかけ、会場はまさに人の海となりました。

かつてラーマクリシュナが生きていたころ、彼を訪ねてくる信者は、ごくわずかでした。しかしいまや、これだけ多くの人々が、ラーマクリシュナを神の化身と讃えて集まっていました。ヨーガナンダをはじめ兄弟弟子たちは深い感動に包まれました。

翌年1898年にはラーマクリシュナ・ミッションのセンターであるベルル僧院で生誕祭を催しました。数多くの困難を克服して実現されたこれら祝典の成功の陰には、ヨーガーナンダの大いなる働きがありました。

1897年、ヴィヴェーカーナンダが欧米から凱旋した時に催された大歓迎会でも、ヨーガナンダの組織力はいかんなく発揮され、大成功を収めたのでした。

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