仏教を代表する美女アンバパーリー
ブッダの時代、北インドは十六もの国に分かれる群雄割拠の時代でした。その中にあって、ヴァッジ国はリッチャヴィ族など八つの部族による共和制を敷いており、国の方針は議会によって決定する自由と進歩を尊重する国でした。その中心地ヴェーサーリー(ヴァイシャリー)は、ガンジス河中流域に位置する商業都市で、通商貿易によって非常に栄えていました。
ある日、ヴェーサーリー郊外に広がるマンゴー(アンバ)園の樹の下に、女の子の赤ちゃんが捨てられていました。赤ちゃんはそのまま庭守(パーラ)が育てることになりました。
アンバパーリーと呼ばれるようになったその娘は、非凡な美の持ち主に成長しました。彼女はヴェーサーリーだけではなく、遠い国の貴公子からも求婚されました。リッチャヴィー族の王族青年は彼女との結婚を競い合い、彼女を巡る争いが頻発しました。そのため、長い話し合いを経て、彼女は独占されるべきではないと決定されました。その結果、彼女は最高級遊女になるよう取り決められたのです。
遊女アンバパーリーの評判は国内外に広がり、その容姿、優雅さ、教養が高く評価され、さらにダンスや歌、音楽の才能も認められました。彼女のもとには絶え間なく客が訪れ、彼女は一夜にして50金を受け取りました。アンバパーリーは巨額の富を得て、かつて自分が捨てられたマンゴー園を含む大邸宅を所有しました。
アンバパーリーによってヴェーサーリーはさらなる繁栄を遂げました。それを知ったマガダ国のビンビサーラ王は「我が都ラージャガハも美しい遊女によって華を添えるべきだ」と対抗心を燃やし、サーラヴァティーという若い女性を遊女にするように命じました。
そのビンビサーラ王自身がお忍びでヴェーサーリーを訪れました。王も他の男性同様にアンバパーリーにすっかり魅了されてしまいました。このときの交わりから、後に仏弟子となるヴィマラ・コンダンニャが生まれました。
ある日、アンバパーリーはその息子を連れて、ブッダに会いに行きました。ブッダの澄みきった慈悲の眼差しに触れると、彼女の心の中にこれまでにない平安と歓びが満ち溢れました。彼女は思わず涙しました。
ブッダはアンバパーリーに語りかけました。「美しさは名声や財産と同じように、生じては過ぎ去っていく。ただ修行の果実である安らぎと歓びだけが真の幸福をもたらすのだ。つまらない享楽に溺れてみずからを失ってはいけない」
ブッダはさらに法を説き、アンバパーリーの心に深く刺さりました。彼女はその場でブッダに帰依しました。息子ヴィマラ・コンダンニャもブッダに強く感化され、やがて彼は僧団に出家し、その後、阿羅漢に到達しました。
ブッダとアンバパーリーの交流とマンゴー園の寄進
ブッダは最後の旅の途中で、遊女アンバパーリーのマンゴー園に滞在しました。それを知ったアンバパーリーは、早速麗しい馬車を仕立てて出かけました。ブッダの説法に深く感動しながら彼女は、「尊い師よ、明朝は私の家で修行僧の方々と共にお食事をなさってください」と申し出ました。ブッダがこれに同意すると、アンバパーリーは大いに喜びました。
しかし、支度のために帰路を急ぐあまり、彼女はリッチャヴィ族の若い貴公子たちの車とすれ違いざまに接触事故を起こしてしまいました。貴公子たちもまたブッダに教えを請うために道を急いでいたのです。アンバパーリーが翌朝ブッダたちを招待していることを聞くと、「女よ、十万金を差し上げるから、その権利を譲ってくれないか」と言いました。
しかし、アンバパーリーは「たとえ貴方がたがヴェーサーリーのすべてをくださると言っても、このような素晴らしい食事のおもてなしを譲ることはいたしません」と断りました。これを聞いた貴公子たちは先を越されたことをたいへん悔しがりました。
彼らはマンゴー園に赴き、ブッダの説法を受けて感激しました。「明日は是非とも我々の家で食事をなさってください」と諦めきれない貴公子たちはブッダに懇願しました。しかし、ブッダは「私はすでに、アンバパーリーから食事の招待を受けている」と断りました。
この時代のインドは、カースト制度により身分が厳しく分かれ、女性蔑視も存在していました。貴族階級である貴公子たちと、奴隷階級である遊女の間には激しい格差があったのです。そのため、ブッダが貴公子たちの申し出を断り、先約とはいえアンバパーリーの接待を優先したことは、当時の常識では考えられないほど画期的なことでした。すなわち、ブッダは身分や性別に基づく差別を否定したのです。
アンバパーリーはその夜を徹して美味の食事を準備しました。翌朝、ブッダと弟子たちはアンバパーリーの心のこもった食事の供養を受けました。そしてブッダは仏教の核心である戒律、瞑想、智慧についての法話をしました。
アンバパーリーは歓喜し、「尊い師よ、私はこの園林をブッダとサンガに捧げます。どうかお受けくださいますように」と自分の所有するマンゴー園を寄進しました。
後にここに精舎が建てられ、仏教僧団の重要な拠点の一つとなったのです。
尼僧アンバパーリーの解脱と教訓
その後アンバパーリーは、息子ヴィマラ・コンダンニャの導きを受けて俗世を捨てました。そして、比丘尼の僧団に入り、修行に邁進しました。老いてゆく自らの身体を瞑想の対象にして、その儚さ(無常)と苦しみを観察しました。
原始仏典『テーリーガーター』には、年を重ねた彼女の詞が残されています。かつては非凡な美しさを誇り、遊女として多くの男たちを虜にした彼女も、時の経過と共にその輝きを失い、老いのためにすっかり変わり果ててしまいました。詞には美の儚さを観察し、ブッダへの信仰を深める彼女の思いが綴られています。
私の黒髪は黄金で飾られ、芳しく柔らかで、見事に編まれて、いとも美しくありましたが、いまでは老いのために、その髪は抜け落ちました。真理を語る方(ブッダ)の言葉に誤りはありません。(255)
私の眼は、宝石のように光り輝き、紺碧色の大きな切れ長でしたが、いまでは老いのために輝きを失いました。真理を語る方の言葉に誤りはありません。(257)
私の歯は、かつては芭蕉の蕾の色のように、いとも美しくありましたが、いまでは老いのために、それらは砕けて、麦のように黄ばんでいます。真理を語る方の言葉に誤りはありません。(260)
私の声は、森の中で木立を飛び回るカッコウのように、甘く囀るようでしたが、いまでは老いのために、途切れ途切れになっています。真理を語る方の言葉に誤りはありません。(261)
私の手は、かつてはなめらかで柔らかく、黄金で飾られていましたが、いまは老いのために、樹の根や球根のようになってしまいました。真理を語る方の言葉に誤りはありません。(264)
私の二つの乳房は、かつては豊かで形が整っていて上向きでしたが、いまでは老いのために、水の入っていない皮袋のように垂れ下がっています。真理を語る方の言葉に誤りはありません。(265)
私の身体は、かつてはよく磨かれた金の板のように、いとも美しくありましたが、いまでは老いのために、細かい皺で覆われています。真理を語る方の言葉に誤りはありません。(266)
このように、寄り集まってできているこの身は、老いさらばえて、多くの苦しみが集積するところとなりました。それは塗装の剥げ落ちたあばら家です。真理を語る方の言葉に誤りはありません。(270)
孤児であり奴隷階級だったアンバパーリーは、その容姿によって多くの人を魅了し莫大な財産を得ました。かつての美貌は彼女に俗世で生きる糧を与え、衰えていく容姿は俗世を超える道を示しました。
彼女はさらに深く洞察を進めました。たゆみない瞑想の実践によって、アンバパーリーは自分の無数の過去世を知る力(宿命通)を得て、自分が過去世においてたびたび美女として生まれ変わったことを知りました。しかし、肉体の美しさはいつも萎れ、老いと死によって打ち砕かれるのでした。そしてついにアンバパーリーは悟りを得て、涅槃の不滅の美しさに到達したのでした。
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