生きたヴェーダにまみえる機会
1899年、ナーグの信者チャクラヴァルティのもとに、ナーグの妻から電報が届きました。ナーグの病状が非常に悪いという内容でした。
チャクラヴァルティは困ってしまいました。彼は翌日、ラーマクリシュナ・ミッションで『ヴェーダ(インド最古の聖典文献群)の宗教』というテーマで論文を発表する予定だったからです。
高弟アドブタ-ナンダが、彼に言いました。「あなたには、これからもヴェーダを論じる機会は多々あるだろう。しかしもしナーグ・マハーシャヤが逝ってしまうなら、あなたはもはや生きたヴェーダにまみえる機会を、今生では失うことになる」
チャクラヴァルティはその日のうちに、ナーグの住むデオボーグに向かいました。
翌日暗くなる前に、チャクラヴァルティはデオボーグに到着しました。家に入るや否や、ベランダで横になっているナーグを見ました。季節は冬でした。肌を突き刺すような冷たい風が牧草地から吹いています。
ベランダには割れ目がたくさんある数枚の衝立(ついたて)があるだけでした。ここで夜を過ごすことの辛さは誰の目にも明らかでした。チャクラヴァルティは、なぜナーグがベランダで寝ているのか尋ねました。ナーグの妻シャラトカーミニーが小さい声で答えました。
「わが子よ。夫が寝たきりになってからというもの、わたしたちがどんなにお願いしても、彼はベランダに横になっているのです。腹痛は激しくなり、赤痢にもかかっています。病状は重くなり、彼の許しを得てあなたに電報を打ったのです」
ナーグを部屋の中へ連れ込むためのあらゆる説得は、無駄に終わりました。ナーグは耐え難いほどの肉体の苦痛の中にありました。
しかしその苦しみに打ち負かされることはありませんでした。彼の口にのぼる話題といえば、ただ師ラーマクリシュナの慈悲の救いだけでした。
「わたしの前世からの因がもたらしたカルマはもはや尽きました。あとわずかを残すのみです」とナーグは言いました。
肉体の面倒の見かた
ナーグ・マハーシャヤが死去するまでの13日間、チャクラヴァルティは彼に付き添いました。この間、バガヴァッド・ギーターやバーガヴァタム、ウパニシャッドなどの聖典を読み聞かせました。
そしてチャクラヴァルティは神の賛歌を歌いました。それらの歌を聴きながら、ナーグはしばしばに没入しました。恍惚状態から戻ると、彼は深い眠りからさめた子供のように、「お母さん! お母さん!」と声をあげました。
さらにナーグは言いました。「神は何と慈悲深く、親切なのでしょう! すべてが主の恩寵です!」
しかしチャクラヴァルティは、ナーグの苦しみを見て「神は慈悲深いどころか、残酷だ」と思いました。
すると彼の心を読んだナーグが、こう語りました。「神の無限の慈悲に対して、一瞬たりとも疑ってはなりません。いったいこのような身体の状態で、どのような奉仕ができるのでしょう。ごらんなさい、今は寝たきりです。
わたしはあなたの内なる神に仕えることさえできません。だから聖ラーマクリシュナが慈悲をもって、このわたしの卑しむべき肉体を、五つの構成要素(地水火風空)に崩壊させるのです」
それからつぶやきました。「肉体の面倒は肉体自身に見させておきなさい。悲惨さと苦しみは、それら自身に任せておきなさい。おお心よ! あなたはそれらから離れて、自己の至福の中にあれ」これは、ラーマクリシュナが死の病にかかった時の言葉と同じでした。
さらにこう言いました。「この肉体を思い煩ってはいけません。どうか、この肉と骨でできた檻のことは考えないでください。母なる神の御名を思いなさい。聖ラーマクリシュナのことを語りなさい。これらは世俗という病に対する唯一の薬なのです」
ナーグのサマーディ
チャクラヴァルティは、再び母なる神の歌を歌い始めました。彼は歌に没頭しました。
すると突然ナーグの妻の声で我に返ると、驚いたことに、寝返りを打つこともできないはずのナーグが、いつの間にかヨーガの坐法を取っていたのです。彼の眼は眉間に固定され、涙が頬を伝っていました。ナーグはサマーディに入っていました。
チャクラヴァルティとシャラトカーミニーは、このような坐方は彼に大きな負担を与えると心配し、彼を再び横にしました。ナーグは通常意識を取り戻し、母なる神の御名をつぶやいていました。
チャクラヴァルティは、ナーグに懇願しました。「師よ。どうかわたしにあなたの恩寵を惜しみなくお与えください。あなたのいない世界で、わたしはどうして暮らしていけるでしょうか? わたしは誰に頼ればよいのでしょうか?」
ナーグは答えました。「何を恐れているのですか。あなたがシュリー・ラーマクリシュナの御足の下に避難したときに、彼の恩寵が惜しみなく与えられることはすでに保証されています。彼を望む者は、彼を実現するのです」
その頃、師の高弟サーラダーナンダはダッカに滞在していました。彼は頻繁にナーグを見舞い、看護に関する助言を与えました。サーラダーナンダは美声の持ち主でした。彼がやってくるとナーグは、師が好んでいたいくつかの歌を歌ってほしいと頼みました。
サーラダーナンダの歌を聴きながらナーグはサマーディに入りました。サーラダーナンダのアドバイスに従って、ナーグの耳元で神の御名を唱えると、間もなくナーグは超越意識から戻ってきました。
ナーグはこの世を去る前に母なる神を礼拝したいと希望を述べました。サーラダーナンダの指示で、起き上がれないナーグのために神像が彼の目の前に運ばれました。目を開けて聖母の姿を見ると「母よ! 母よ!」とつぶやきながら深いサマーディに没入しました。
聖母の御名が耳元で唱えられましたが、今度は通常意識に戻りませんでした。脈はなく心臓の鼓動も聞こえませんでした。
「彼は永遠にわたしたちを置き去りにした!」と妻が悲しみに打ちひしがれ、叫びました。サーラダーナンダが皆を落ち着かせました。「いたずらに心配したり、彼の前で泣き叫ばないように。彼はもう一度感覚世界に戻ってくるだろう」
それから2時間が経過しました。突然、ナーグが子供のように泣きながら「至福の母よ!」と声を出しました。そして彼は「母なる神への礼拝はどうなりましたか?」と尋ねました。
ナーグの聖地巡礼
礼拝の後、ナーグの状態が急変しました。彼はたいそう落ち着きを失って、無我夢中で何かを口走り始めました。そして突然、泣きながら、「おお、わたしをお救いください! お救いください!」と叫びました。
シャラトカーミニーは悲しみながら言いました。「最期の時にいかなる迷いもわたしに触れることはない、とおっしゃったのは、あなたではありませんか。なぜあなたはそんなにも落ち着かなくなっているのですか?」
半時間ほどして、ナーグの発作は治まりました。
死の前夜、目を閉じて横になっていたナーグは、突然目を開けて、せわしなくあたりを見渡すと、言いました。「聖ラーマクリシュナがここにやってきました。そして彼は、わたしに巡礼の地を見せよう、と言いました」
ナーグはチャクラヴァルティに「さあ、聖地の名を唱えてください。わたしはその地を見るでしょう」と告げました。
チャクラヴァルティは聖地の一つである『ハリドワール』の名前を口にしました。するとナーグは興奮して大声で繰り返しました。
「ハリドワール! ハリドワール! 聖母ガンガーがヒマラヤ山脈から落下してくる! 岸辺と木々は、まるでその波とともに踊っているかのようです。それ、反対側にはチャンディ山が見えます。ああ、何と美しい沐浴のガートでしょう!
美しい階段、人々が次々に河床をめざします。少々お待ちください。わたしはここ20年間、沐浴していませんでした。わたしに聖なる水で沐浴させてください。そしてわたしの生涯を祝福してください。おお、聖母ガンガーよ、堕落した人々の救世主であり、罪人の救済者よ!」
こう言うと、ナーグ・マハーシャヤは深いサマーディに没入しました。彼が超意識から降りて来たとき、真の沐浴を終えた姿に見えました。
次にチャクラヴァルティは聖地『プラヤーガ(ガンガーとヤムナー河の合流点)』の名前をあげました。するとナーグは、「バンザイ、ヤムナー河! バンザイ、ガンガー!」
と言って、深々とお辞儀をしました。
そしてさらにナーグは言いました。「バーラドヴァージャ仙人の庵はどこにあるのですか? わたしには見えません! ガンガーとヤムナー河の合流点は見えます。反対側には、山の連なりも見えます。ああ、師が、わたしにバーラドヴァージャの庵を隠しておいでです」
それからナーグはまどろみ、数分後、つぶやきました。「ああ、わたしは今それが見えます」
そして続けて言いました。「おお、聖母よ、汝は素晴らしい王の中の王の配偶者です! ガンガーよ、汝は聖母ご自身が顕現した素晴らしい力です! どうして汝は、こんなに曲がりくねっているのですか?」
そして再びナーグはサマーディに没入しました。
通常意識に戻ると、チャクラヴァルティは今度は『ヴァラナシ(シヴァ神の聖地)』の名をあげました。
するとナーグは言いました。「シヴァ神に栄光あれ! 宇宙の主に栄光あれ! ハラ、ハラ! ヴョーム、ヴョーム! このたびはわたしは、偉大なる主に溶け去るでしょう」
このようにして夜は更けていき、朝方の4時ごろになり、ナーグはやっと眠りにつきました。
ナーグ・マハーシャヤの最期
翌日の午前8時過ぎ、ナーグは絶えざる恍惚状態にありました。チャクラヴァルティが、ラーマクリシュナの名を唱え始めました。そしてラーマクリシュナの写真をナーグの眼の前に飾り、ナーグに言いました。
「あなたがその御名の下にすべてを放棄した師のお写真です」
ナーグはそれを見て、手を合わせると、弱弱しい声で言いました。
「恩寵、恩寵、あなたの無限の慈悲からあふれ出る恩寵……」
これがナーグ・マハーシャヤの最後の言葉でした。
午前9時ごろには、ナーグの体に、最期の兆候がさまざまに現れました。眼は赤みを帯び、唇は震え始めました。30分ほどすると、突然彼の眼は眉間に固定され、毛は逆立ち、眼は神聖な愛の涙で濡れました。
10時05分、ナーグ・マハーシャヤはマハー・サマーディに入り、この世から身を退きました。彼の顔は光輝に輝き、半分開いた眼にはまだ神聖な愛の涙がありました。享年、53歳でした。
夜10時過ぎ、すべての儀式が終わり、ナーグ・マハーシャヤの遺体は火葬されました。サラーダーナンダは、このたぐいまれな聖者に敬意を表して、燃える薪の前で、地面にひれ伏し続けました。
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