ナンダ、強引に出家させられる
ヒマラヤの麓、静謐な自然に抱かれた釈迦族の小さな国に、後の仏教の開祖となるゴータマ・シッダールタが生誕しました。シュッドーダナ王とマーヤー妃の間に生まれた彼ですが、母マーヤーは産後わずか七日でこの世を去ります。妹マハーパジャーパティが王の後妻に迎えられ、彼女がシッダールタを慈しみ育てました。
ナンダ(難陀)はそのマハーパジャーパティの子で、ブッダの異母弟にあたります。彼はブッダが持つとされる三十二の優れた様相の中で、わずかに二つ欠けるだけで、ほぼ完全な威容を誇っていました。
シッダールタが成道してブッダとなり故郷カピラヴァストゥに凱旋すると、広く法を説きました。その感化力は強大で、釈迦族の多くの有能な若者たちはこぞって出家の道を選びました。
そのときナンダは結婚をしたばかりで、美しい新妻スンダリー(カリヤーニー)との甘い新婚生活を過ごしていました。
ある日、ブッダが王家の宮殿での食事に招かれました。家族水入らずの温かい時間を過ごした後、法を説いて帰途につきました。しかし、そこには彼の托鉢の鉢が残されていました。
それに気づいたナンダは、鉢を持ってブッダの後を追いかけようとしました。その時、新妻スンダリーは不安な予感からナンダの額に水滴を垂らし、「王子様、この水滴が乾く前にお帰りくださいね」と憂いを帯びた声で呼びかけました。
ナンダがブッダに追いつき「どうぞこの鉢をお受け取りください」と声をかけましたが、ブッダはただ前を向いて歩を進めました。追い続けるうちに、ナンダはブッダの滞在地であるニグローダの園に辿り着きました。そこでブッダは厳かに言い渡しました。
「ナンダよ、私と同じように世を捨てて出家するがよい。そして五つの感覚の快楽から離れなさい。欲望は無常であり、投げ打つべきものだ。欲望は大苦の根本であり、大きな傷のようなものだ。欲望は人々を破滅へと導くのだ」と、ブッダはためらうナンダの髪を剃り、彼を半ば強制的に出家させてしまいました。
ナンダの悶々とする日々
ナンダの威容は高弟たちですらブッダと見間違うほどでした。しかし、彼の胸の内はブッダとは全く異なり、重く沈んでいました。結婚したばかりの美しい新妻スンダリーとの幸せな生活が突如として終わりを告げられたのです。王家の権勢や宮殿での快楽な生活も断たれてしまったのです。
そんな彼は上質の衣を洗練されたスタイルで身にまとい、目の周りには繊細な化粧を施し、革靴を履き、左手には優雅な日傘を携えて托鉢を行いました。
このことがブッダの耳に入ると「ナンダよ、比丘は少欲知足にして静謐せいひつな場所で道を修めなければならない」と彼を叱り、その行動を禁じました。
ナンダは心の内を吐露しました。「私の心はまだ世俗の中にあります。新妻の顔が忘れられず、夢の中にさえ現れるのです」。
ブッダは深く見つめ返し、「ナンダよ、真の幸福は内面から生まれるものだ。外の物に依存する幸福は永続しない」と教え諭しました。
しかしナンダの修行の日々は悶々としたものでした。愛妻スンダリーへの想いは、日増しに強くなるばかりでした。別れ間際の彼女の声が、ナンダの耳から離れず、彼の心を苦しめました。ナンダは平らな石や板にスンダリーの姿を描き、その絵をじっと見つめ続けました。
見ているうちに、彼女の姿や香りが現実のものとして感じられるようになりました。ナンダはかつての甘く楽しい日々を想いながら夜を明かしました。彼はその絵を眺めながらため息をつき、スンダリーとの再会を夢見ました。
悩みと苦悩の日々が続いた後、ついにナンダはブッダが托鉢に行っている間にニグローダの園から逃げ出そうとしました。しかしブッダはこれを察知しすぐさま姿を現して、次の詩句を説きました。
「迷いの林を出ても
また入るのは迷いの林
なんじ、このような人を見よ
迷いの心の束縛を離れて
また束縛されていることを」
この言葉を聞いたナンダは、ブッダの声にハッと我に返りました。兄ブッダは彼の生きた教えでした。ブッダは王宮での暮らしや妻子を放棄して、いまは悟りの境地の至福を楽しんでいるのです。
ナンダは愛着の思いを振り捨てようと修行に励みました。しかし、妻への深い思いは容易には消えず、結局、悶々とした日々に戻ってしまいました。
ナンダを案じたブッダは、ある日彼に言いました。
「ナンダよ、今日わたしと一緒にカピラ城に行くか?」
「ぜひとも、お伴させていただきます」とナンダは喜んで答えました。
ブッダは彼を連れて城下に入り、ある魚屋の店先に立ち寄りました。そこにはかや草の上に、たくさんの魚が不快な匂いを放ちながら並べられていました。
ブッダは言いました。「ナンダ、店頭のかや草を一把取ってみるがよい」
ナンダはそうして、しばらくかや草を握った後、
「そのかや草を地に捨て、そなたの手を嗅いでみなさい」とブッダは続けました。
ナンダは手の匂いを嗅ぎ、魚の生臭い臭いを感じました。
「手が臭うか?」ブッダが尋ねると、
「はい、生臭いです」とナンダは答えました。
「ナンダよ、それと同様に悪人と交際すると徐々に悪業に染まり、最終的には悪評を世に残す。だから悪友との交際を断ち切るべきだ。反対に善友と交わるときは、名声を得ることができる。まるで香物を持っていると、その香りが長く手に残るようなものだ」と、ブッダはナンダに教えを与えました。
ブッダの方便:猿と天女と地獄の釜と
それでもナンダは世俗の楽しみに未練を残し、特に妻スンダリーから心を離すことができず、彼の葛藤は頂点に達しました。そこでブッダは、毒をもって毒を制する例えのように、ナンダの燃え盛る欲望を同じ欲望で断ち切ろうとしました。
ある日、ブッダはナンダの手を取り、神通力を用いてまたたくまに山の上に連れて行きました。大風が吹くと、樹の枝が擦れ合い、火花を散らして山火事が起こりました。
そこに住んでいる五百匹の猿が逃げ惑っていました。その中で一匹のメス猿が、火にまかれて全身に深いやけどを負い、皮膚が焼けただれ、割れた肉から血が滲んでいました。
ブッダはナンダに問いかけました。「ナンダよ、そなたの慕うスンダリーの容貌とあの猿のどちらが美しいのだろうか?」。ナンダは美しい妻と猿を比べられて黙ってしまいました。
そのままブッダはナンダを天上の三十三天まで連れて行き、五百人の光り輝く天女たちが袖を翻ひるがえして舞い踊る姿を見せました。ナンダはその天女たちの圧倒的な美に目を奪われました。
「これらの天女たちとスンダリーを比べると、どちらが美しいか?」とブッダが尋ねると、ナンダは、「この天女たちと比べれば、私の妻はあのあさましい猿と変わりません!」と即答しました。
ブッダは言いました。「天女たちと親しくしたいなら、修行に精進することだ。そうすればこの天界に生まれ変わることができる」
人間界に戻ったナンダは、天女たちと戯れ遊びたい一心で修行に励みました。他の仏弟子たちは、そんな不純な動機で修行する彼の不謹慎さを注意しましたが、ナンダは気にせず修行に打ち込みました。
ナンダの修行が進んだ頃、ブッダは彼を連れて今度は地獄界へ行きました。地獄の烈火は凄まじく、地を焼き、天を焦がして、銅の煮えたぎる釜が数限りなく並び、罪人たちが釜茹でにあって耳をつんざく叫び声が空間を埋め尽くしていました。その中に一つだけ罪人の入っていない釜がありました。
ナンダが獄卒に尋ねると、「ナンダさんよ、この釜はあんたのために用意したものだ。銅を沸かして待っているぞ」と獄卒は答えました。「私は三十三天に生まれるはずだ」とナンダが言うと、「知っている。しかしあんたは天界で遊び呆けた後、寿命が尽きて、地獄に落ちてこの釜で煮られることになっている」と獄卒は答えました。
ナンダは恐怖で震え上がりました。ブッダが問いました。「ナンダよ、天女を得るために天上界に生まれたいと思うか?」
「いいえ、天上界などどうでもいいです。どうしたらこの地獄を逃れることができるのでしょうか?」
「それには、迷いの世界である六道の輪廻から抜け出さなければならない」
ナンダの妻への愛情は天の絶世の美女たちを目の当たりにすることで崩れ去り、その美女たちへの欲望もまた地獄の恐怖を前にして砕け散りました。この時、ナンダは真の解脱の意味を理解し始めました。「もはや天上界も、この世界のどの楽しみも求めません。ただ、苦しみから解放されたいだけです」と彼はブッダに語りました。
悟り後のナンダ
ナンダは人間界に戻るやいなや、一心に思いを凝らして修行に打ち込みました。長い修行の末、欲望の束縛をすべて断ち切り、悟りを得ました。
ナンダは深い森の中で瞑想修行を行い、その静けさの中で悟りの境地を堪能しました。彼の心は、まるで清らかな水面のように穏やかで、もはやいかなる欲望にも動じることがありませんでした。
ブッダは「五感によって起こる煩悩から己を制御することにおいて、弟子の中で最も優れているのはナンダである」と褒め、『調伏根第一(じょうぶくこんだいいち)』と称えました。
ナンダは誰よりも欲望の強かった欠点を克服し、誰よりも欲望をコントロールできるという長所に変容させたのです。彼は短所に真剣に向き合い長所に変えた好き例となりました。
その後のナンダは、仏教教団の重鎮として人々を導く存在となりました。彼は多くの場所で教えを説き、多くの人々を感化しました。
あるときは、母マハーパジャーパティが統率する比丘尼たちの集会で説法し、彼女たちに感動を与え、さらなる説法を何度も懇願されて日没に至るまで話し続けることもありました。
ナンダの容貌は端正で、声は鈴を振るように麗しく、人々は聞いて飽きることがありませんでした。ナンダの言葉は、彼の過去の苦悩を乗り越えた経験に基づいており、その説得力には計り知れないものがありました。
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