サーラダーナンダの生涯(3)多様な活躍~欧米布教から事務総長、ウドボーダンまで

Ramakrishna world

インド放浪修行

やがてサーラダーナンダは、食と雨露のしのぎを完全に神にお任せする、放浪修行に憧れるようになりました。そこで彼は聖地プリに行き、続いて北インドの聖地を巡りました。

1890年、シヴァ神の祝祭の夜、兄弟弟子たちの小グループは、ニルカンタの丘にあるシヴァ聖堂に参拝しました。聖堂の周囲は深いジャングルに覆われていました。

サーラダーナンダは帰途、非常にゆっくりと歩きました。彼はシヴァ神への思いに没頭していたのです。仲間たちは少し先を歩いていました。サーラダーナンダが我に返ったとき、仲間からはぐれており、道にも迷っていることに気づきました。

サーラダーナンダは、野生動物が横行するジャングルの中で、この夜を生きのびる見込みはほとんどないと感じました。もし死ぬのなら瞑想中に肉体を捨てようと決意しました。彼は樹の下に坐り、完全に神の思いに没入しました。

翌朝、兄弟弟子たちは必死の捜索を始めました。そして彼らは樹下に不動の姿で坐り、神の至福に浸っているサーラダーナンダを見いだしたのです。 

1891年の夏、彼は兄弟弟子アベダーナンダに再会しました。二人はヴァラナシの神聖な地域、10キロメートル四方を歩き回る正式な苦行を行ないました。

これは極めて過酷な行であったため、二人とも熱病に襲われてしまいました。高熱から回復した後、サーラダーナンダは今度は赤痢にかかりました。 

病気から回復した彼は、ホーリーマザーにお目にかかるために、マザーの生地、ジャイランヴァティに向かいました。そこで彼は非常に幸せな時を過ごしていましたが、マラリアにかかり、長い間その後遺症に苦しみました。 

欧米での活動

ヴィヴェーカーナンダはシカゴの世界宗教会議で大成功を収めました。彼の卓越した知性と弁舌は欧米を席巻しました。彼は講演、ヨーガのクラス、個人指導、手紙のやり取り、書籍の執筆などの救済活動に燃えるように取り組みました。

やがて西洋人の弟子たちの一群ができ、ヴェーダーンタ協会が設立されると、彼をサポートする人材が必要となりました。そこでインドからサーラダーナンダを呼び寄せました。彼の学識と神聖のゆるぎなさに、ヴィヴェーカーナンダは絶対の信頼をおいていたのです。

サーラダーナンダは旅の途中でローマの聖ペテロ大聖堂を訪れました。 ここで彼はサマーディに入って外界を忘れたと言われます。これは彼が過去世でイエス・キリストの弟子であった、という師の言葉と関係があったのかもしれません。

1896年4月1日、サーラダーナンダはヴィヴェーカーナンダと再会を果たしました。彼はロンドンで講演を行ったあと、ニューヨークに派遣されました。すぐにグリーンエーカーズ比較宗教会議の教師の一人として招かれ、会議が終わると、今度はブルックリン、そしてボストンで講演しました。

至るところで、サーラダーナンダの威厳のある態度、丁重な物腰、どんな質問にも応じる用意があること、とりわけ彼の話の神聖の高さは、彼に多くの友人、称賛者、そして信者をもたらしました。彼は、その後、ヴェーダーンタ協会を定期的かつ組織的な方法で続けるために、ニューヨークに駐在しました。 

ラーマクリシュナ・ミッションの事務総長に

インドに帰国したヴィヴェーカーナンダは、母国での救済活動のための組織『ラーマクリシュナ・ミッション』を発足させました。そこで有能な人材を必要としたため、サーラダーナンダをアメリカから呼び戻しました。

1898年2月、コルカタに戻ったサーラダーナンダはラーマクリシュナ・ミッションならびにラーマクリシュナ僧院の事務総長に任ぜられました。

アメリカで組織運営の経験を得ていたサーラダーナンダは、速やかに僧院の運営を秩序あるものとしました。修行と教学と仕事の三つに分けられた僧院内の日常生活は、規律正しく運営されるようになりました。

同時期に流行したコルカタでのペストに際して、彼は救済活動の陣頭指揮を取りました。ペストが終息すると、西洋の弟子たちと北インドの史跡を巡るガイドを引き受けました。続いて伝道とベルル僧院の資金集めのために、講演旅行に出ました。

サーラダーナンダの冷静沈着

その数カ月後、ヴィヴェーカーナンダ発病の知らせを受けて、サーラダーナンダはカシミールに向かいました。その途中で彼自身が事故に遭いました。

彼が乗っていた乗合馬車の馬が突然驚いて山を下り始めたのです。馬車は落ちたところで一本の木にぶつかり、その隙に彼は馬車から脱出しました。ちょうどそのとき落岩が当たり、馬は死んでしまいました。

サーラダーナンダは難を逃れました。驚きなのは、彼がこのような危機にあっても全く落ち着きを失わなかったことです。 

同様の冷静さは、ロンドンへの航海のときにも見られました。船は地中海でサイクロンに遭いました。助かる望みはないと乗客たちは右往左往して、多くの人が恐怖のあまり泣き叫びました。しかしサーラダーナンダは一部始終を静かに傍観していたのでした。 

またあるとき、コルカタからベルル僧院への帰途、サーラダーナンダはガンジス河を運航する小船に乗っていました。信者の一人も同行していました。やがて、突風が起こり、小船はうねる波間で激しく揺れました。

しかし、サーラダーナンダは静かに水タバコをふかしていました。この冷静さは信者を非常にイライラさせ、彼はそのパイプをガンガーに投げ捨てました。信者のこの激しい怒りに対しても、彼は優しいほほえみを返しただけでした。 

別のある日、サーラダーナンダが僧院の礼拝所に入ると、コックのつけた足跡で床が汚されていました。彼はすぐにコックを呼びつけました。

コックは叱られると思って恐怖の色を浮かべ、震えながらやってきました。しかしサーラダーナンダはすぐに我に返って、「いや何でもない、行ってもよろしい」と言いました。

1900年12月、二度目の洋行から戻ったヴィヴェーカーナンダは激しい救済活動のために健康を害していました。彼は自分の寿命が長くないことを知っていました。生きているうちに師ラーマクリシュナの仕事を成し遂げたいがために、彼は時として人に厳しくなることがありました。

そんなムードにあるときは、兄弟弟子たちですら、ヴィヴェーカーナンダに近づけませんでした。しかしサーラダーナンダだけは別でした。彼の深い静けさはどんな人の怒りも鎮めることができたのです。

1902年7月、 ヴィヴェーカーナンダはこの世を去りました。ラーマクリシュナの霊性の息子ブラフマーナンダが指導者の地位を引き継ぎました。事務総長のサーラダーナンダは彼と協力して、複雑な、しかも増大しつつある仕事に取り組み続けました。 

ウドボーダン

さらにサーラダーナンダは、ラーマクリシュナ・ミッションの月刊誌『ウドボーダン』の編集と印刷の仕事を引き受けました。これは3年ほど前にヴィヴェーカーナンダの発案で創刊され、兄弟弟子トリグナティターナンダの奮闘によって軌道に乗せたものです。しかし、トリグナティターナンダがアメリカに派遣されると、ウドボーダンはたちまち財政難に陥ってしまいました。

そこで立て直しのためにサーラダーナンダが着任しました。彼の有能かつ忍耐強い管理のもとに、ウドボーダンはⅤ字回復し、読者を増やし、財政状態も徐々に向上しました。

数年後、彼はウドボーダン専用の建物を持つべきだと考えました。また、ホーリーマザーのコルカタの家が必要でした。それまでのマザーは信者の家や借家を転々としていたのです。 

そこでサーラダーナンダは、下がウドボーダンの事務所、上がホーリーマザーの住まいとなる建物を持とうと計画しました。彼は借金をして、この事業に着手しました。

1908年、ついに念願の建物が完成しました。一階はウドボーダンの制作や印刷に使われ、二階でマザーとその親類が暮らしました。

二階の聖堂にはラーマクリシュナの写真が安置されていました。この建物をある人は『ウドボーダンオフィス』と呼び、ある人は『マザーズハウス』と呼んだのです。

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