【インドの英雄】ヴィヴェーカーナンダの生涯(5)インド凱旋と救済活動

Ramakrishna world

国民的英雄のインド凱旋

ある人が「あなたは、ぜいたくで力に満ちた西洋で4年間を過ごされました。いま、インドについてどのように感じていますか?」とたずねました。

ヴィヴェーカーナンダは次のように答えました。

旅に出る前からわたしはインドを深く愛していました。いまは、インドの塵さえもがわたしにとって神聖なものとなっています。インドはいまやわたしにとって聖地です

ヴィヴェーカーナンダの欧米で成し遂げた偉業は、母国インドに知れ渡っていました。イギリスの植民地化にあってどん底に陥っていたインドの民衆は、インドの精神性の高さを世界に強く伝えたヴィヴェーカーナンダを国民的英雄と見ていたのです。

1897年1月、ヴィヴェーカーナンダがインドに到着すると、街頭を埋めつくす大観衆から歓声があがりました。人々が、彼の足に触れようとして、なだれ寄って地面に身を投げ出しました。

街にはいくつものアーチが飾られ、旗が掲げられ、聖水や花が道にまかれ、多くの供物が捧げられました。楽隊が音楽を奏で、大砲がとどろき、花火があげられました。

ヴィヴェーカーナンダは凱旋将軍のように威風堂々と行列のまん中に現われ、パレードが行なわれました。

「これがインドなのだ。これほどの歓迎が、政治家や軍人や、富豪に対してではなく、托鉢をして歩く一人の僧侶に対してなされる。こんなことは他国ではけっしておこらない。これが、インドの偉大さであり、神への愛であり、神を求める人々を大切にする心なのだ」

ヴィヴェーカーナンダは歓迎にこたえ、人々の魂をゆり動かす炎のような演説をしました。

あらゆる魂に向かって、立ち上がれ! めざめよ! ゴールに達するまで立ち止まるな! と宣言しましょう。この弱さという催眠状態から目覚めよ! ほんとうに弱い人は一人もいないのです。魂は無限であり、全能であり、全知です

わたしたちが必要としているのは、鉄の肉体と鋼の神経である。わたしたちはもう十分に涙を流し続けてきた。自らの足で立ち、勇気を奮い起こすのです

以降、インドの若者たちはこぞって『ラーマクリシュナの福音』や『ヴィヴェーカーナンダ講演集』を愛読し、ヴィヴェーカーナンダの演説に鼓舞され、これらがやがてインド独立運動のエネルギーへとつながったのです。

カルカッタにおいてヴィヴェーカーナンダは、師ラーマクリシュナを次のように讃えました。

「わたしが思想、言葉、行為において成し遂げたことがあったとしても、世界の人を助ける言葉がわたしの唇からこぼれ落ちたことがあったとしても、それはわたしがしたことではありません。師がなされたことです。

しかし、わたしの唇から災いが生じたのなら、わたしから憎しみが生じたのなら、それらはすべてわたしのものであって、師のものではありません。弱さはすべてわたしのものであり、命を与え、強くし、清らかで聖なるものはすべて、師のインスピレーションであり、言葉であり、そして師ご自身です」

ラーマクリシュナ・ミッションの設立

そのころカルカッタではペストが流行し、たくさんの人が苦しみ死んでいきました。人々は感染を恐れて、病人の世話をする者がいませんでした。そこでヴィヴェーカーナンダはただちに救済活動に着手しました。

そのとき、一人の兄弟弟子が「どこから活動資金を得るつもりか?」とたずねると、彼は「なあに、必要なら僧院を建てるために買ったばかりのこの土地を売ってもかまわない。師ラーマクリシュナが、『人の内にいる神に奉仕せよ』とおっしゃっている

資金は思いがけないところから集まり、救済活動は無事に進められ、ペストの流行も沈静化しました。

1897年5月、ヴィヴェーカーナンダはラーマクリシュナの弟子たちを招集しました。彼の提案によりラーマクリシュナのメッセージを広め、救済活動を行なう組織として『ラーマクリシュナ・ミッション』が設立されました。

さらに出家僧たちの修行による「神の実現」と、「人類への奉仕」を目的として、『ラーマクリシュナ僧団』が組織化しました。

1898年、西洋の信者からの多額の布施によって、ガンジス河西岸ベルルに恒久的な僧院のための広大な土地が購入されました。他の信者たちも気前よく布施をし、建物が建てられました。

このベルル僧院が現在ラーマクリシュナ・ミッションの本部となり、その支部は世界各地に年々増加し、180余りのセンターとなり今日も国際的な活動を続けています。

兄弟弟子との衝突

しかしヴィヴェーカーナンダの考えややり方が、周囲の完全な理解を得ていたわけではありませんでした。

ある日、兄弟弟子のヨーガーナンダが、ヴィヴェーカーナンダに対して率直にこう言いました。

「救済活動や奉仕のためのセンターを作ることは、西洋の影響を受けたヴィヴェーカーナンダ独自の考えであって、神への愛のみを強調された師の教えに反している」

これに対して、ヴィヴェーカーナンダも厳しく言い返しました。

「あなたはわたしよりも聖ラーマクリシュナを深く理解しているとでも思っているのか! あなたのいうバクティ(信愛)は、人を無力にする、感傷的なたわごとです。

あなたは自分が理解したように聖ラーマクリシュナを説こうとしている。しかしその理解は浅いものだ! そんなものは振り棄てなさい! 

もし人々を救うことができるのなら、わたしは喜んで千の地獄にでも落ちていこう」

感情の高まりで声は詰まり、体は震え、ヴィヴェーカーナンダは隣の部屋へと消えました。兄弟弟子たちが心配して見に行くと、彼は半ば閉じた眼に涙を浮かべて、瞑想にふけっていました。 

1時間ほどするとヴィヴェーカーナンダは冷静さを取り戻し、兄弟弟子たちのところに戻って、穏やかにこう言いました。

わたしは圧倒されずに、聖ラーマクリシュナのことを思ったり語ったりすることはできません。だからいつもジュニャーナ(智慧)の鉄の鎖で自らを縛りつけようと努めています。

なぜなら、母国のための仕事がまだ終わっていないし、世界へのメッセージがまだ十分に伝えられていないからです。

ああ、わたしにはなさねばならない仕事があります。わたしはラーマクリシュナのしもべです。師は、なすべき師の仕事をわたしに残した。その仕事を終えるまで、わたしに休息は与えられません。

ああ、わたしは師のことをどのように話せばよいのだろう。わたしに対する師の愛を!

この出来事があってから、兄弟弟子たちはヴィヴェーカーナンダを批判することをやめました。ラーマクリシュナがいかにヴィヴェーカーナンダを通じて仕事をしているかを知ったからでした。

救済活動

そして兄弟弟子もまた、自分だけの安らぎを求めるのではなく、世界の人々のための奉仕に全力を注ぐようになりました。

教育事業に携わっていたアカンダーナンダは、ただちにムシルダバードで飢餓に苦しむ人々の救済活動を組織し、のちにサラガチに移って孤児のために学校を開設しました。

ラーマクリシュナ―ナンダはヴィヴェーカーナンダの命を受けて南インドにおもむき、新たな僧院を設立しました。

シヴァーナンダとトリグナティターナンダはセイロンとバングラデシュのディナージプルに行き、布教と飢餓救済に従事しました。

 わが身をかえりみない凄まじい救済活動によって、ヴィヴェーカーナンダは次第に健康を損ねるようになりました。そんな状態であるにも関わらず、1899年、彼は欧米へ二度目の旅にでました。

西洋にまいたヴェーダーンタの種が順調に育っているか見届けるために、また、新しい刺激という肥料を与えるためでした。

1900年12月にヴィヴェーカーナンダはインドに戻りましたが、彼の健康状態はさらに悪化していました。

兄弟弟子たちはヴィヴェーカーナンダに訪問者たちへ教えを説くことをやめさせようとしました。しかしヴィヴェーカーナンダはこう言いました。

師は最期まで教えをお説きになったではないか。わたしも同じことをしてはいけないのか。わたしは自分の肉体が滅び去ってもかまわない。真剣に道を求める人と話をすることが、わたしにとってどれほどの喜びか、君たちは全くわかっていない

弟子たちへの訓練

ヴィヴェーカーナンダは病気がちであったにもかかわらず、弟子たちの訓練に力を注ぎました。僧院の生活に目を光らせ、清潔さ、食事、学問、瞑想、仕事にも目を配りました。ヴェーダーンタの授業は毎日行なわれ、可能な限り彼自らが教鞭をとりました。

ヴィヴェーカーナンダは朝4時に僧たちを起こすために部屋から部屋へ鐘を鳴らして起こすことをルールとして定めました。僧たちが瞑想のために礼拝堂に集まると、ヴィヴェーカーナンダは誰よりも早くそこに坐り瞑想していました。

兄弟弟子のブラフマーナンダはよく次のように言いました。「ナレンと一緒に瞑想に坐ると、人はただちにブラフマンに没入してしまう! 自分一人で坐っているときは、このようには感じない」

あるときヴィヴェーカーナンダは、病気のために数日間、朝の瞑想を休みました。数日後、朝の礼拝堂にヴィヴェーカーナンダが顔を出すと、そこにはたった2人しか瞑想していないのを見て、彼は激怒し、欠席者たちは食事抜きとなりました。

またある日は、兄弟弟子のシヴァーナンダが、瞑想の時間になってもベッドで寝ているのを見て、ヴィヴェーカーナンダは彼にやさしく言いました。

「あなたには瞑想など必要ないということは分かっています。あなたは聖ラーマクリシュナの恩恵によって、最高の目標にすでに達しておられますから。しかし、若い者たちに手本を示すために、彼らと一緒に毎日瞑想すべきです」

その日以来シヴァーナンダは、彼が晩年に寝たきりになるまで、病気であろうといかなる理由であろうと、若い出家僧たちとの早朝の瞑想を欠かすことはけっしてありませんでした。

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