アドブターナンダの生涯(終)『ラーマクリシュナの最大の奇跡』の最期

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ヴァラナシでの激しい修行

アドブターナンダはインドを代表する聖地ヴァラナシで、人生の最後を過ごすことにしました。1912年10月、彼はバララーム・ボースの屋敷を去りました。

出発の直前、アドブターナンダは9年間暮らしたその部屋をじっと見つめ、「マーヤー幻影! マーヤー! マーヤー!」と言うと、師に礼拝して、部屋を後にしました。

アドブターナンダは、聖地ヴァラナシのあちこちで修行しながら過ごしました。どこにいても彼は昼夜深い瞑想に没入しており、常に神聖な雰囲気を身にまとっていました。たくさんの人々が彼に引きつけられました。

ある信者がアドブターナンダに質問しました。「あなたは聖ラーマクリシュナにお会いになり、長い間彼にお仕えしました。コルカタのガンガーの岸辺で、たくさんの修行を積みました。老年に入られたいま、どうしてこれほどの激しい修行を重ねるのですか?」

アドブターナンダは答えました。「彼に会い、お仕えしただけでは、真理に到達できない。簡単ではないのだ。

霊性の修行は不可欠だ。彼の恩寵によって人は真理に到達するだろう。しかし霊性の修行なしに恩寵は受け取れない。

たとえ小さな恩寵のためでも懸命に努力すべきだ。主の恩寵を受け取り続けるのは容易なことだろうか?  いや、それには多大な努力と強さが必要なのだ。

恩寵とは一度つかまえたら、その後ずっと満足できるちょっとしたことだと思うか?  恩寵は無限なのだ。どれほど多くの方法で彼が恩寵を与えるか、それは誰にもわからない」

トゥリヤーナンダとサーラダーナンダの訪問

かつてはきわめて頑健であった彼の肉体は、加齢と長年の激しい修行、そして健康への無関心さによって、次第に弱まっていきました。人生の終盤、アドブターナンダは無口になり、話すとなると高尚なことだけを話しました。師やヴィヴェーカーナンダについて語るときは熱弁をふるうのでした。

このころ、兄弟弟子のトゥリヤーナンダが、しばしばアドブターナンダを訪ねました。彼はアドブターナンダと一切言葉を交わすことなく、静かに一時間ほど座って立ち去るのでした。

不思議に思ったある信者が「なぜ話しをしないのですか?」と尋ねると、トゥリヤーナンダは答えました。

「ラトゥ・マハラジ(アドブターナンダ)はほとんど常に深い瞑想に入っておられる。どうしてわたしと話せるだろうか? だからわたしはただ沈黙して座り、彼との神聖なひとときを楽しんで去るのだ」

あるとき、サーラダーナンダが、コルカタからアドブターナンダを訪ねてきました。彼はアドブターナンダの足の塵を取る最上の礼拝をした後、言いました。「やあ、サドゥ(出家修行僧)! 調子はどうかね?」

アドブターナンダは重い口を開きました。「肉体があるというのはわずらわしいことだ」

不思議に思ったある僧侶が「なぜ最上の礼拝をしたのですか?」と尋ねると、サーラダーナンダは答えました。

「ラトゥ・マハラジはわたしたちの誰よりも早く師のもとに来た。彼は出家弟子の中で一番の先輩なのだ。最敬礼して当然ではないか?」

アドブターナンダの最期

アドブターナンダ(?-1920)

アドブターナンダは、人間関係の束縛を断ち切っていきました。彼はしばしば、このように口にしました。

「わたしは、(誰それとの)マーヤーを切った。わたしは信者たちの重荷をいつまでも担うのか? 世間から心を退けるとき、わたしは彼らのことを考えない」

アドブターナンダは正式には一人の弟子も取りませんでした。しかしこのセリフからも、彼が信者たちの喜びや悲しみを、常に心の深くで分かち合っていたことが伺えます。

死が近づいたある日、アドブターナンダはこのように言いました。「神と結ぶことのできる関係には三つある。『わたしの神』、『わたしは神』、『わたしは神のもの』。このうち、最後のものが最も良い。なぜなら、自尊心を誘わないからだ

孤児で人の召使いであったアドブターナンダは、神の化身ラーマクリシュナの召使いになりました。彼は生涯『わたしは神のもの』の態度を貫いたのです。

アドブターナンダの右足首に帯状疱疹たいじょうほうしんができて壊疽えそへと進行しました。医師たちは数日にわたり何度も手術をしました。

驚くべきことに彼は全く痛みを感じておらず、手術はまるで他人事のように行なわれました。彼の心は非常に高い境地にあったので、肉体の観念すら忘れていたのでした。

1920年4月24日、アドブターナンダはマハーサマーディに入りました。眼は眉間に集中し、心は完全に外界から離脱していました。偉大なる魂は肉体という檻から完全に解放されました。

死後直ちに駆け付けたトゥリヤーナンダは次のように描写しています。

「彼の表情は、実に平安でやさしかった。苦しみのかけらもなかった。両眼はいっぱいに開かれ、そこから歓喜と愛情が放出されていた。その光景は実に神々しく、感動の極みであった」

兄弟弟子ブラフマーナンダはこう言いました。

「彼の外観は粗野だが、内面は愛とやさしさそのものだった。彼とほんの数日でもつきあえば、彼には全くエゴ(自己中心性)がないことがわかるだろう。前世でよほどの功徳を積んでいなければ、あれほどの修行者とお近づきになれるものではない」

信者ビハリラル・サルカルは、こう言いました。

「偉大な霊的人格と接することで、人は必ず何かを得ます。彼と接する幸運に恵まれた人は誰でも、はっきりとしたものを受け取りました。

彼とともにいると、高められました。何千もの僧の中からも、その生涯をあれほど完全に神にささげた人、放棄と純潔のあれほどの模範となる人を探すのは難しいのです」

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