ラーマクリシュナーナンダの生涯(終) 偉大な知性とその教え、炎の献身者の最期

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ラーマクリシュナーナンダの偉大な知性

ラーマクリシュナーナンダの知性も、彼の信仰心に劣らず偉大でした。彼はヒンドゥー教学者とサンスクリット語(古代インドの聖なる言語)で会話をし、また彼が書いた聖者ラーマーヌジャの伝記は、大変権威のある書物になりました。

またラーマクリシュナーナンダは、キリスト教やイスラム教にも精通していました。たとえば彼は聖書を隅から隅まで知っており、キリスト教神学者たちでさえ畏敬の念に打たれるほどでした。

彼は正統派のヒンドゥー教徒として生活していましたが、他の宗教の聖者たちにもこだわりなく、心からの愛を抱いていました。それは時には彼の保守的な弟子たちを当惑させるほどでした。彼は教会でクリスチャンのように跪いて祈り、キリストについて深い愛を込めて話しました。

「わたしは少年の頃でさえキリストに強い感情を常に抱いていました。キリストは人類全体の救済者でした。彼は本当に真の救済者でした。

しかし復活がなければ、キリスト教は宗教にはならなかったでしょう。さもなければ、単にキリストはありふれた男と同じように死んだだけでしょう。そして彼は疑いなく実際に復活しましたが、わたしは彼が十字架の上で亡くなったとは思っていません。

神には不可能なことはなく、一切のことをなし終えたにもかかわらず、命の火花は肉体のどこかに残っていたにちがいなく、それが墓の中で再燃したのです」

「キリストが十字架に架けられたという栄光の事績によって、キリスト教徒は喜んで殉教することができるのです。もし師がもう少し贅沢であったり、もう少し臆病であったならば、彼の信奉者は違っていたでしょう。実際のところ、彼らは師がそうしたように喜んで死にました。

ペテロははりつけが決まった時、まさに一つのことだけを願いました。『頭を下にしてください。わが師は頭を上に向けて栄光ある死を遂げました。彼のしもべであるわたしはその塵に頭をつけて死ぬのがふさわしいのです』」

別のある日、イスラム教徒の学生たちが、雨宿りのために僧院にやってきました。ラーマクリシュナーナンダは彼らを温かく迎え入れ、彼らにイスラム教の信仰について話をしました。その話は非常に啓蒙的で学生たちの心を打ったので、彼らはその後もたびたび僧院を訪れました。  

ラーマクリシュナーナンダは師の放棄の教えを高らかに説き続けました。しかし若者たちの出家を恐れた人が、「放棄の教えは、僧院に寄付する後援者たちが嫌がるかもしれない」とほのめかしました。するとラーマクリシュナーナンダは激怒しました。

「なんだと! わたしが師から学んでないことを人々に説けとでもいうのか? もし師の教えを説くことで僧院が財政的に立ちゆかなくなるなら、わたしは喜んで、誰か生徒の家のベランダにでも住もう」

人は最初の宗教的情熱が過ぎると、一時的に心が冷めることがあります。ラーマクリシュナーナンダのクラスの生徒たちも同様でした。あるクラスでは、出席者がゼロの日もありました。

ラーマクリシュナーナンダは、誰もいない空っぽの部屋の中ででも、いつものように講義するのでした。「なぜそんな不思議なことをするのか?」とある人が尋ねました。

彼はこう答えました。「わたしは人に教えるためにここに来たのではありません。この仕事はわたしにとって誓いなのです。そのため出席者がいなくても、わたしはそれを果たしているのです」

ラーマクリシュナーナンダの核心を突く教え

ラーマクリシュナーナンダは難解とされる宗教上の問題でも、少しの言葉で解説できました。彼には、物事の核心をつかみ、真実をシンプルに表現する才能があったのです。

あるとき地元の大学教授と政治・宗教について議論したとき、ラーマクリシュナーナンダはこう話しました。

政治は意見の自由である。しかし宗教は意見からの自由である

またあるとき、宗教の二元論と一元論について、こう説明しました。

二元論においては(神との愛を)楽しむことが理想であり、一元論では自由が理想である。そのどちらも崇高である。人は一つの理想から別の理想へ移る必要はない

またあるときは、科学と宗教についてこう表現しました。

科学は外的世界における人間の苦闘であり、宗教は内的世界における人間の苦闘である。しかし前者は失敗に終わり、後者は成功に終わる。宗教は科学の終わるところから始まる

「科学的な方法はすべて、観察と実験を土台としています。しかし、人が観察と実験を超えたものを認識する瞬間、彼はそれらをあきらめ、物質主義的科学を放棄するでしょう。

科学は常に有限な肉体と関係し、神は無限です。科学的な方法はありふれた方法であり、なぜなら、これまで見てきたように、科学は観察と実験を土台とし、そして観察と実験は感覚を土台としています。

したがって科学は限界あるものを越えられないのです。しかし、神と真理は無限なのです」

またあるとき、ラーマクリシュナーナンダはエゴイズムについて次のように説きました。

「エゴが取り除かれるとき、そこには最も大きな安らぎがあります。それはまるで大きな重荷が転がり落ちたようなものです。わたしたちの疑いや恐れ、不安や苦しみは、すぐさま消え去ります。

“わたし”がなくなるとき、そこには神または神性のみが残ります。主をただその栄光の中にだけ存在させなさい。エゴを否定しなさい。それはあなたの一切の惨めさの原因なのですから」

彼はさらに鋭い口調でこう言いました。

「神を悟る前に、人はこのエゴを取り除かなければならないでしょう。つまり、“わたし”という第一人称を追い出さなければならないでしょう。

神の意思は全宇宙における唯一の意思であり、人の意志は単なるその宇宙の意思の小さな反射に過ぎず、偉大なる神が存在するがゆえに存在しているだけなのです」

神を自分の内側に連れてきなさい。これがエゴを忘れる方法です。ハートの中に彼の存在を感じなさい。人が神の存在を感じる瞬間、エゴを追い払う必要はなくなるでしょう。

それは自ずと消え去ります。自己中心性はなくなるでしょう。人の小さな栄光は神の無限の栄光の中で消え去るでしょう

ラーマクリシュナーナンダ(1863-1911)

南インドでのラーマクリシュナ・ミッションの発展

やがてラーマクリシュナーナンダの奮闘努力は実を結び、チェンナイ市内だけではなく、州全体、そして南インド全体へ広がっていきました。あるとき彼はマイソールで、大学に集まった学者たちを前にして、サンスクリット語で講演を行いました。

この講演の中で彼は、過去の聖者たちのさまざまな思想を、師ラーマクリシュナがいかに一つに調和させたかを、堂々と説きました。これは彼の大胆さをあらわしています。というのも、保守的な南インドにおいて、最も保守的な学者たちを相手にこれを論証したからです。

ラーマクリシュナ―ナンダは南インドを講演で巡りました。各地でラーマクリシュナ・ミッションのセンターが建てられ、彼の名声は広がりました。ビルマやボンベイなど遠く離れたところからも招待を受けました。いずれの地においても、彼は大きな成功をおさめました。

またあるときコインバトールで、幼い子供数人を残して、一家全員が伝染病で死んでいるのをラーマクリシュナーナンダは見ました。その哀れな子供たちのいたたまれない姿は、慈悲深い彼の心には耐えられませんでした。

彼はその子供たちを僧院に引き取り、世話をしました。これがラーマクリシュナ・ミッションの教育部門の始まりであり、後に素晴らしい発展を遂げたのでした。

指導者としてのラーマクリシュナーナンダは、真の修行者、真の信者を一人でも多く作ることに力を注ぎました。彼らがことごとく完璧で、行動の細部に至るまで、他の人々の模範になれるように導きました。

あるとき、彼の講義の最中にほおづえをついて座っている生徒を見つけると、彼は注意しました。「その姿勢はいけない。それは陰気な態度だ。君は常に元気のいい態度を養わなければならない」

また、ときどき、僧院を訪れる軽率な訪問者が、僧院内で新聞を広げて読むことがありました。そういうとき、ラーマクリシュナーナンダはこう言って注意しました。「新聞をしまいなさい。どこででも読めるでしょう。ここに来たときは、神のことだけを考えるべきだ」

ラーマクリシュナーナンダの最期

南インドでの、自己の肉体をかえりみない激しい救済活動の結果、強靭であったラーマクリシュナーナンダの体にも、様々な病の兆候が現われ始めました。しかし彼は肉体の悲鳴には耳を貸さず、強い精神で身を粉にして働き続けました。

ついに彼は重い病に倒れました。医者は結核と診断しました。その知らせがカルカッタに届くと、仲間の僧たちは、最期の日々を自分たちと一緒にコルカタで過ごしてほしいとラーマクリシュナーナンダに頼みました。彼自身もそれを望みましたが、厳格な彼は、僧院から正式な指示が来るまでは、チェンナイを動きませんでした。

コルカタでの彼は、病の床に伏しながらも、神についての高度な話を語り続けました。彼を愛する人たちが、体に障るからやめるように頼むと、ラーマクリシュナーナンダはこう言いました。

「なぜか主について話をするときには、全く苦しみがなくなり、わたしは肉体を忘れるのだ」

うわごとを言うときにも、彼の心は常に主のみに捧げられており、「ドゥルガー、ドゥルガー・・・・・・」「シヴァ、シヴァ・・・・・・」「ラーマクリシュナ、ラーマクリシュナ・・・・・・」とつぶやくのでした。

1911年8月21日、炎の献身と激しい救済活動の末に、ラーマクリシュナーナンダは48歳で肉体を去り、最愛の師のもとへと逝ったのでした。

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