『ラーマクリシュナの生涯』執筆の裏側。
サーラダーナンダは師ラーマクリシュナの生涯を、後世に正しく伝える必要性を痛感していました。そして借金返済のためにも、本に書いて出版しようと考えました。
拡大し続けるラーマクリシュナ・ミッションと僧院の運営に従事しながら、彼は執筆に全力を傾けました。精力的に集められる限りの資料を集め、多くの人々にインタビューを重ね、師の生涯のできる限り正確な記録を残すべく、細心の注意を払って情報をふるいにかけました。
来る日も来る日も、来る年も来る年も、彼は小さな一室の、ごく小さなちゃぶ台のような机で、この仕事を続けました。たくさんの訪問者や僧院やミッションの用事で、彼の執筆はしばしば妨げられました。
彼の住んでいた家はいつも混みあっていました。なぜならホーリーマザーが二階に滞在していたので、時を選ばずやってくる信者が列をなしていたからです。
ラーマクリシュナは人類史上、最上位に位置する大聖者です。そんな人物の正確かつ科学的な伝記を書くことがどんなに困難な仕事であるかは、容易に想像できるでしょう。
その仕事がサーラダーナンダによって成されました。それは、
- ラーマクリシュナの高弟の一人としてそばで仕えた
- サーラダーナンダ自身も高いレベルの成就を得ていた
- 東洋と西洋の宗教と哲学、および一般教養を身につけていた
彼がこれらの条件を全て有していたからです。
サーラダーナンダはラーマクリシュナの生涯から、様々な素晴らしい逸話を引いて解説しました。またラーマクリシュナの思想を、インド先史から近代にいたる大きな宗教や哲学の流れの中で、学術的に解説しました。
そういった中で、聖伝の名著『シュリー・シュリー・ラーマクリシュナ・リーラ―・プラサンガ(邦訳『ラーマクリシュナの生涯』)』が誕生しました。これはまず1909年から『ウドボーダン』に連続掲載され、1911年から1918年までの間に五巻に分けて出版されました。
この本を手に取れば、サーラダーナンダの広い経験、広大な学識、合理的な探究精神、そして深遠な霊的境地が感じられることでしょう。しかしこの偉業に対して、サーラダーナンダは決して称賛を受けようとはしませんでした。彼は言いました。「この本を書くために、師がわたしを道具としてお使いになったのです」
ホーリーマザーの門番
兄弟弟子ヨーガーナンダは、師の出家弟子の中で最も早く世を去りました。彼の最後の12年間はホーリーマザーへの奉仕に捧げられました。そんなある日、ヨーガーナンダはサーラダーナンダにこう告げました。
「シャラト、ひとつ言わせてもらうなら、マザーから離れないことだ。マザーのおっしゃることはすべて正しい」
ヨーガーナンダの亡き後、マザーの身辺のお世話こそが、サーラダーナンダ自身の一番の義務だと感じました。彼にとって、マザーは人間の姿をした母なる神の現われでした。
変人ぞろいの親類をかかえるマザーに仕えるのは、慎重さを要する難しい仕事でした。サーラダーナンダは、その親類たちの面倒を引き受け、死の床にあったマザーの末弟アバイの看病をして、姪のラードゥのために金の工面をしました。
マザーの巡礼には同行し、マザーが病気のときは彼自身が駆けつけました。彼女の身体が病気で焼けるように熱くなったときには、自分の身体にマザーの柔らかな手を押し当て、冷やしてあげました。
ホーリーマザーの神性が知れ渡るにつれて、時を選ばずにやってくる信者が列をなすようになりました。サーラダーナンダは自称『マザーの門番』として、マザーズハウス入り口の左の小部屋に駐在しました。彼は訪問者一人一人をしっかりと見定め、彼女の生活を守りました。これはけっして容易な務めではありませんでした。
ある日、一人の信者が遠方からマザーズハウスまで歩いてきました。とても暑い日の午後でした。マザーは他の信者の家から戻ったばかりで、休息を取っていました。
「今は上がらせる訳にはいかない。マザーはお疲れなのだ」とサーラダーナンダはその信者を止めました。
ところが信者は「マザーはあなただけの母親なのか?」と言い、彼を押しのけてマザーのいる二階へ上がってしまいました。
すぐに自分の短気さを悔いた信者は、マザーにそのことを話しました。マザーはやさしく彼を元気づけました。
退出するときにサーラダーナンダに会わないように願いながら、おどおどしながら階段を下りていくと、彼は同じ場所に座っていました。
信者は無礼を詫びました。サーラダーナンダは信者を抱き寄せて言いました。「わたしへの無礼など何だ。あれほどの思慕の思いがなくてマザーにお会いできようか?」
ホーリーマザーが病気のとき、別の信者がマザーのところにやってきてイニシエーションを願いました。マザーは数日後また来るように伝えました。ところがどうしてもと男がせがむので、サーラダーナンダと相談するように言いました。
「わたしはお母さんの他には誰も知らないのです」と男は言い張りました。「あなたのもとに来たのです。どうぞイニシエイトしてください」
「どういうことですか?」マザーが答えました。「シャラトはわたしの頭の宝石です。彼の言う通りになるでしょう」。信者が一階に戻ると、サーラダーナンダがイニシエーションの日取りを決めてくれました。
ホーリーマザーへの献身
ホーリーマザーはこのように言っていました。「シャラトがいる限りウドボーダンで暮らせるでしょう。それ以外にわたしの責任を負ってくれる人は思い当たりません。あらゆる面でシャラトはそれができるのです。あの子がわたしの重荷を背負う者なのです」
また,次のようにも言っていました。「シャラトのいないコルカタに行くなんて考えられません。わたしがコルカタにいる間に、もしもあの子がどこかに二、三日行くと言ったなら、『ちょっと待って。わたしが先に発ちますから。そのあとであなたが出かけなさい』と言うでしょう」
サーラダーナンダは15年以上もホーリーマザーに仕える特権を与えられました。彼女はマザーズハウスでサーラダーナンダに看取られながらこの世を去ったのです。しかしホーリーマザーの全面的な愛情と信頼を受けながらも、彼は謙虚そのものでした。
「サーラダーナンダがマザーの御前に平伏する姿は尋常ではなかった」と見ていた者は言います。いわば地面に溶け込むかのように、身体と魂とすべてを彼女の足もとに奉げて礼拝したのでした。
ある日、マザーの弟子が、マザーズハウスに駐在していたサーラダーナンダの足のちりを取りました。彼に敬意を表わしてインドにおける最上級の礼拝をしたのです。
サーラダーナンダは驚いて、「なんと大げさな挨拶だろう。何のつもりかね?」と言いました。そしてこう述べました。
「君を祝福くださった方の恩寵を待って、わたしはここに座らされているのだ。もしも望まれるなら、マザーは今この瞬間にでも君をわたしの席に座らせることができるのだ」
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