『不滅の言葉』最後の仕上げ
『不滅の言葉』最終巻である第五巻が、1932年の1月に書きあがり、Mはただちに校正の作業に入りました。
1932年5月28日のことでした。早朝、Mが散歩から帰ってきました。「なぜ一人でお出かけになったのですか?」Mの近しい弟子ニティヤートマーナンダ(ジャガバンドゥ)は尋ねました。
Mは答えました。「歩いていないと、気が落ち着かなかったのだよ。そうしないと、もしかすると、もう二度と動けなくなったかもしれないのだ」
Mは三階へ行って、第五巻の第13章と14章の校正に目を通し、追加と変更を行いました。
午前1時、ニティヤートマーナンダはMの部屋の明かりに気づきました。部屋に入ると、ランタンの明かりで校正を読んでいるMを見ました。彼の健康は優れず、休みなく働いていたので、その目は涙で潤んでいました。
ニティヤートマーナンダはMにもっと体を労わるようにと、愛情を込めて厳しく言いました。するとMは慈愛に満ちた言葉を返しました。
「世間の人々はこの本によって、師の不滅の言葉に触れることができるのだよ。それに、この肉体は死を避けられない。この肉体は、世間の人々の平安のために使われるべきだ。
われわれはこの世が苦しみであることを散々に理解している。でも私は、ラーマクリシュナの福音を読むと苦しみを忘れてしまうのだ。だから、わたしはこの本を早く世に出すように急いでいるのだよ」
M、最期の24時間
Mが亡くなったのは、1932年6月4日の早朝でした。その前日、いつもどおり自分の食事の準備をし、一人で食事を済ませました。午後には、地下室の床を掃除していました。また、この日は家族を二回訪問しています。
そして夜9時に第五巻の全ての校正作業が終わりました。ついに偉大なる書物が完成したのです。
するとすぐに耐え難い痛みが生じました。Mは両肘の慢性的な神経痛に苦しんでいました。
信者の一人が患部に温めたソルトバッグをあてている間、別の人がMを扇いでいました。ある人は彼をマッサージし、またある人はタオルで彼の汗をぬぐいました。
Mは祈りました。「母なる神よ、わたしの仕事は終わりました」。Mはヨーガの坐法をとろうとしましたが、痛みがそれをさせませんでした。
Mは午前2時半まで、はだけた胸を押さえながら、床を転げまわっていました。ドクターは午前4時に到着し、Mに薬を与えようとしましたが、彼はそれを拒みました。
Mは人生の終わりまで他人からの奉仕を望みませんでした。しかし今はたくさんの人がMのために尽くしている光景を見て、孫たちに言いました。「さあ、お前たちは行って休みなさい」
午前5時、Mの妻のニクンジャ・デーヴィーが到着しました。午前5時15分、Mは嘔吐しました。それ以降、彼の肉体は落ち着いていき、彼の表情は穏やかになリました。
息をするのが難しくなり始めると、Mは言いました。「この肉体はもうもたないだろう」
Mは澄んだ声で言いました。「おお、師よ! おお、母なる神よ! わたしを抱き取ってください!」
その5分後、Mの78歳の肉体は放棄されました。1932年6月4日、午前5時30分でした。
Mの葬儀とシヴァーナンダの弔辞
たくさんの出家僧や信者たちが、Mの元へ集まってきました。Mの家族や親類縁者たちは嘆き悲しんでいました。彼らはMの愛のことばかりを話していました。
葬儀の行進はコルカタの通りから、コシポルの火葬場まで続きました。炎天下の中、何千という人びとが行進に参加しました。
いくつもの場所で渋滞が起こり、電車が止まりました。Mの肉体が灰となったのは、師ラーマクリシュナの身体が荼毘に伏せられたすぐそばでした。
Mの兄弟弟子シヴァーナンダは、ニティヤートマーナンダを慰めました。「Mは師のただの道具であった。彼は聖ラーマクリシュナの使命を果たすためだけにやってきたのだ。Mが使命を終えたとき、師はその腕の中で彼を抱きとったのだよ。
実際、Mの肉体は去ってしまったが、これらの書物を見てみなさい(彼の棚にある『不滅の言葉』一式を指し示して)。これらはMの不滅の栄光を称えるだろう。
太陽と月があり続けるかぎり、聖ラーマクリシュナの御名は地球上で称えられるだろう。Mの名――聖ラーマクリシュナの福音の記録者の名と共に」
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