サーラダーナンダの生涯(1)ラーマクリシュナとの出会い、ヴィヴェーカーナンダとの友情

Ramakrishna world

ラーマクリシュナはある日、法悦状態で一人の若者の膝の上に座っていました。彼はあとからこのように言いました。

「わたしは、彼がどのくらいの重さに耐えられるかテストしていたのだ」

その若者はシャラト(後のサーラダーナンダ)でした。後年ラーマクリシュナ・ミッションと僧院の事務総長となり、彼が負うことになる重責は、超人的な強さを必要としたのです。

ラーマクリシュナへの不動の信によって、彼はあらゆる試練の中でも、心を平静に保つことができました。だからこそ彼は人びとに向かって「師が何もかもうまくやってくださる。安心せよ」と言うことができたのです。

並外れた知性と信仰、慈悲の心を持つ少年

サーラダーナンダは、1865年12月13日、コルカタに住む裕福な正統派のブラーフミン(バラモン)の家に生まれました。俗名をシャラト・チャンドラ・チャクラヴァルティと言いました。

少年のころからシャラトは学業で並外れた成績を修め、ほとんどの試験でトップを占めました。また、運動によって鍛えられた強健な体格は人の目をひきました。 

またシャラトは幼いころから信心深い性質でした。母親が家の祭神の礼拝をすると、彼はそのかたわらに静かに座っており、あとで友だちにその儀式をそっくり再現して見せたのでした。

彼はおもちゃではなく、神々の像を欲しがりました。そして彼が熱中した遊びは礼拝ごっこでした。彼はブラーフミンの少年たちに求められる日々の瞑想にとても几帳面でした。

さらにシャラトは慈悲深くもありました。学校の討論部の中心人物でしたが、荒々しい言葉やあざけりで人を傷つけることは、決してしませんでした。昼食代のお金を貧しいクラスメートのために使いました。

あるとき、隣家の女中がコレラにかかりました。主人は感染を防ぐために彼女を屋上に追いやり、そこで死ぬに任せました。シャラトはこれを知るとすぐにその場に駆けつけ、彼女の看病に必要な一切のことを一人で行ないました。

その哀れな女は、彼の献身的な看病にもかかわらず亡くなりました。主人が彼女の葬儀をしないことを知り、シャラトはその手配までしたのです。

サーラダーナンダ

ラーマクリシュナとの出会いと放棄の教え

 1882年、シャラトは聖ザビエル大学へ進学しました。学長のラフロント神父は、シャラトの厚い信仰心に魅せられ、彼に聖書の手ほどきをしました。シャラトはイエス・キリストの生涯と教えに深く感銘し、神への渇仰が高まりました。

シャシ(後のラーマクリシュナーナンダ)とは、いとこの関係で同じ家に住んでいました。二人はあるとき、コルカタ郊外のカーリー寺院に住む偉大な聖者の噂を耳にしました。1883年10月、シャラトとシャシはドッキネッショルを訪問しました。

ラーマクリシュナは彼らを見るや否や、喜びの声をあげて迎え入れました。そして、集まった人々に説きはじめました。「この頃、親たちは息子をあまりにも早く結婚させる。学業を終えるまでにはもう父親になっていて、家族を養うため職探しに奔走しなければならない」

聴聞者の一人が尋ねました。「それでは結婚するのはいけないことなのでしょうか? 神のご意思に反することなのでしょうか?」

ラーマクリシュナはその人に、聖書の中でキリストが結婚について述べている箇所を、音読するように言いました。

「結婚できないように生まれついた者もあり、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために進んで結婚しない者もいるのだ。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」(マタイ伝一九・一二)

さらに聖パウロの言葉も読むように求めました。「それゆえ未婚者と未亡人に言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。しかし自分を抑制できなければ結婚しなさい。いつも情欲に身を焦がしているよりは、結婚した方がましだからです」(コリント人への手紙七・八~一〇)

その一節が読まれるとラーマクリシュナは述べました。「結婚があらゆる束縛のもとなのだ」と。

聴聞者の一人が質問しました。「師よ、結婚は神のご意思に反するということですか? もし人びとが結婚するのをやめたら、神の創造はどのようにして続いていくのでしょうか?」

師はほほえんで答えました。「心配はいらない。結婚したい者は自由に結婚しても差し支えないのだよ。わたしがいま言ったのは内輪の者たちへの話だ。  

わたしは言わなければならないことを言う。お前たちはそれを好きなだけ受け取ればよい、また受け取らなくてもよいのだ」 

この放棄の教えは、『内輪の者』と師が内心認めたシャラトとシャシに向けたものでした。二人は心に新しい展望を描きました。  

シャラトは大学が休みの木曜日に、ドッキネッショルに通うことにしました。シャラトは師の愛の奔流に巻き込まれたのです。 

ラーマクリシュナはシャラトに尋ねました。「お前はどんなふうに神を悟りたいのかね? 瞑想中にどんな神のヴィジョンを見るのが好きかね?」

シャラトは答えました。「わたしは瞑想中に特定の神の姿を見たいとは思いません。この世界の被造物すべてに顕現しておられる神を見たいのです。ヴィジョンは好みません」

すると師は笑顔で言いました。「それは霊性の悟りの最後に来る。今すぐにそうなることはできないのだよ」

「ですが、わたしはそこまで行かなければ満足しません。そのような祝福された境地にたどり着くまで、霊性の修行の道を歩き続けます」

 ラーマクリシュナは若い求道者の高邁な器量を見て非常に喜びました。

ヴィヴェーカーナンダへの悪い第一印象

あるときシャラトは、昔の友人が堕落して悪どく金儲けをしている噂を聞き、真相を確かめに他の友人たちと彼の家を訪ねました。

召使が取り次ぐ間に居間で待っていると、見知らぬ若者がそこに入って来ました。彼はためらうことなく長椅子に寄りかかり、シャラトたちへの挨拶なしに、クリシュナ神への讃歌を歌いました。 

やがて友人が居間に入ってきました。友人はシャラトたちと少し言葉を交わしただけで、すぐにその青年と楽しそうに会話をはじめました。

シャラトたちは友人の態度を不快に感じましたが、すぐに帰るのも失礼かと思いそこに留まりました。二人は文学について議論を交わしていました。そのとき若者は次のように述べました。

「人生においてまさに最高の理想を実現しようと欲する人もいる。こういう人はたいてい世俗の生活を放棄しなければならない。

わたしは、ドッキネッショルの聖ラーマクリシュナが、最高の理想を完全に体現しているのを見た。それゆえあの方を尊敬しているのだ」

この言葉にシャラトは心を強く動かされました。しかし若者の傲慢に見える態度、そして堕落した友人と親しくする様子を見て、悪い印象を持ちました。


その数か月後、シャラトは師が絶賛するナレンドラ(後のヴィヴェーカーナンダ)という青年に会いに行きました。そしてナレンドラがあの傲慢な若者だったことに驚かされたのです。

ナレンドラの見かけの傲慢さは、驚異的な精神力から生じる自信によるものでした。まもなく二人は深い友情で結ばることになりました。

ヴィヴェーカーナンダとの友情

1884年の冬、ナレンドラはシャラトとシャシを家に招待しました。話しているうちに日は落ち、夕方になって彼らはコーンウォーリス・スクエアに散歩に行きました。

ナレンドラは二人に、師ラーマクリシュナの恩寵によって経験した様々な神秘を話しました。そしてしばらく内側に沈潜した後、美しい声で讃歌を歌いはじめました。歌が終わると、ナレンドラは語りました。

「師は本当に愛を分け与えておられる。愛、バクティ、叡智、解放、そして人が願うものすべてを」

さらに続けました。「ある夜、わたしは部屋の戸に閂をかけてベッドで寝ていた。すると突然師が、わたしというよりも、この身体に住んでいる魂を引き寄せ、ドッキネッショルに連れていかれたのだった。師にはどんなこともおできになる」

ナレンドラの白熱した霊的感動が二人に感染し、神聖な酩酊状態でよろめくほどでした。彼らは長い間現実だと信じていた世界が、夢の中に消えてしまったように感じました。

ナレンドラの経験を聞いて、二人も、師はイエスや神の化身と同列の偉大なる魂である、と考えるようになりました。時計が夜の9時を打ったとき、シャラトはようやく時間の感覚を取り戻しました。

彼らは帰ることにしました。ナレンドラは二人を「途中まで送ろう」と言いました。そしてさまざまなことを夢中になって話すうちに、二人の家まで来てしまいました。シャラトは「食事をしていってくれ」と頼み、ナレンドラは承諾しました。

二人はナレンドラに家まで送らせたことを詫び、今度は彼らがナレンドラを途中まで送ることにしました。

しかし法友同士の語らいは尽きることなく、気付くとシャラトたちはまたナレンドラの家まで来ていたのです。三人は家を往復し、結局別れたのは午前1時でした。

 師はシャラトとシャシがナレンドラと知り合いになり、彼らの間に深い友情が芽生えたことを知り、喜びました。ラーマクリシュナは独特の飾らない口調で言いました。「一家の主婦はね、どの鍋にどの蓋があうのかを知っているものだよ」 

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