【ゆるがない心】サーラダーナンダの生涯(終)最後の二つの大仕事

Ramakrishna world

ラーマクリシュナ・ミッションでの事件

ラーマクリシュナ・ミッションは発展しました。インド全国に、そして世界各地に僧院とセンターのネットワークが広がりました。それにともない煩わしい問題も多発しました。

1909年、マニクトラ爆弾事件に関係した革命家として告訴されたデヴァヴラータとサチーンドラが、政治的活動を止めてラーマクリシュナ僧院への出家を希望しました。

彼らを受け入れることは、警察と政府の怒りを招く怖れがありました。しかし、過去の行状を理由に彼らを拒否するのは、人々から弱腰との謗りを受けるでしょう。

サーラダーナンダは大胆にも彼ら二人と政治犯の容疑者数名を、僧院のメンバーとして受け入れました。彼はカルカッタの警察署長やその他の高官たちに会い、この若者たちの保証人になることを請け負いました。その後、彼らは全員、模範的な暮らしぶりでサーラダーナンダの信頼に十分応えたのです。

その数年後、ベンガル州政府の行政報告書の中に、ヴィヴェーカーナンダの著作が、ベンガルにおける革命運動の背後で鼓舞激励の源になっていると、ほのめかした箇所がありました。さらにベンガル州知事のカーマイケル卿のある発言が、ミッションに多大な悪影響を与えました。

この事態を修復するために、サーラダーナンダは知事に手紙を書き、高官たちに会い、彼らの活動に対する誤解をすべて解きました。 

1913年、バルドワンで大洪水がありました。ラーマクリシュナ・ミッションはただちにサーラダーナンダの指揮のもと、救援活動を始めました。彼は、いつも貧しい人や苦しむ人たちのために、心を痛めていました。

洪水や飢きんがあると彼は必ず募金を集める手配をし、適切な働き手が現場に行けるように取り計らいました。このバルドワンの救済活動は何カ月も続きました。 

病人への慈悲

1917年、兄弟弟子プレーマーナンダがカラアザール熱に感染しました。サーラダーナンダは治療の一切を手配しました。1920年にはアドブターナンダホーリーマザーが病に倒れ、そこでもサーラダーナンダが治療の手配をしました。その後、トゥリーヤーナンダが重病になり、サーラダーナンダはプリに駆けつけました。

病人が注射を嫌がっていると、サーラダーナンダが現われるだけで、病人たちは心を変えました。病人が体に障る食べ物が欲しいとわめいていると、サーラダーナンダが現われて「あなたの欲しいものを食べてもいいですよ。でもそのうちにね」と言いました。病人は子供のようにうなずくのでした。

晩年のあるとき、サーラダーナンダは真昼に一人で外出しました。心配した侍者があとを追いました。最初は「来るな」と言ったサーラダーナンダも、侍者の真剣な訴えに同行を許しました。

サーラダーナンダはある宿屋に着くと、2階の一室に入り、一人の病人のそばに座りました。病気は結核でした。サーラダーナンダは終始思いやりのある言葉で語りかけ、病人を優しくなでていました。

病人は不注意でした。彼が話すと、つばきが四方に散りました。その上に病人は起き上がると果物をいくつか切って、サーラダーナンダに差し出しました。帰る途中に侍者は失礼も顧みず、感染リスクが高い状況で物を食べたことを注意しました。

最初は黙って聞いていたサーラダーナンダはこう答えました。「師はいつも『愛と信仰をもって捧げられた食べ物を食べても、おまえには何の害もないだろう』と言っておられた」 

最後のふたつの大仕事

サーラダーナンダはいくつかの死別にあって、胸が張り裂ける思いでした。1918年にプレーマーナンダが、1920年にアドブターナンダとホーリーマザーが、さらにトゥリヤーナンダとブラフマーナンダが後を追うように師の元へ帰っていったのです。

その後、彼が最も心を傾けた仕事は、ホーリーマザーの生地ジャイラーンヴァティーに聖堂を建立することでした。彼は資金を調達し職人を監督しながら、建設工事の極めて細部にまで心を配りました。ホーリーマザーへの信仰の象徴である美しい聖堂は、1923年4月19日に奉献されました。 

サーラダーナンダが行ったもうひとつの重要な仕事は、1926年のラーマクリシュナ・ミッション・コンベンションの開催でした。それは、インドおよび世界のおよそ100あるセンターの僧侶たちが集結して、事業計画を練るための会議でした。

体調は良くありませんでしたが、サーラダーナンダは非常な熱意をもって大会を導きました。冒頭での歓迎挨拶で、彼はこれまでのラーマクリシュナ・ミッションの概略をざっと述べ、現在の状況について極めて率直に語りました。そして一同に向かって、将来に潜んでいる危険と落とし穴について警告しました。

「新しい運動のいずれもが、反対、受容、および衰退という三段階を経過するのだ。ひとつの新しい運動が発足すると、そこに大きな反対が起こる。その反対に耐えるだけの強さがあると、大衆はそれを受け入れ、賛辞と称賛を降り注ぐ。

そのときに、その運動にとって真の危険がやって来るのだ。なぜなら安心は精神と活力のゆるみをもたらし、突然の拡大成長は、創始者たちの間に見られた目的への熱意と結束を、急速に弱めるからである」

コンベンションが終わると、サーラダーナンダは事実上、活動の第一線を退き、さらに多くの時間を瞑想に費やしました。健康を害しているのに、修行に没頭する彼を見て、医師たちは心配しました。 しかしあらゆる抗議に対して、彼はただ優しいほほえみを返しただけでした。

サーラダーナンダの最期

1927年8月6日の早朝、サーラダーナンダはいつものように自分の部屋で瞑想しました。普段はそれが正午過ぎまで続くのですが、この日はいつもより早く席を立って、礼拝所に入りました。

いつになく長く、30分近く中にいて、入り口へ戻ってきました。しかしまた中に入ると、しばらくホーリーマザーの写真の近くに立っていました。そして戻って来ました。そんなことを数回繰り返しました。

やっと出て来た時、すばらしい穏やかさが顔に輝きだしていました。彼はいつものように他の日課に従事しました。夕方、彼は自室でじっと沈思していました。

後で侍者が書類を持ってきました。サーラダーナンダはそれをタンスの引き出しにしまおうと立ち上がったとき、めまいを起こしました。侍者に薬を用意するように言い、余計な心配をさせぬよう、人には秘密にするように指示しました。これが彼の最後の言葉でした。

脳溢血でした。サーラダーナンダは8月19日、午後2時にこの世を去りました。 享年61歳でした。

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