スダッタ:祇園精舎を寄進した在家信者
スダッタ(アナータピンディカ)の帰依
コーサラ国の首都サーヴァッティーに、スダッタ(須達多)という裕福な商人がいました。身寄りのない者を憐れんで食事を給していたため、人々から『アナータピンディカ(孤独な人々に食を給する人)』 と呼ばれ尊敬されていました。
スダッタは商用でコーサラ国とマガダ国の間を牛車で行き来していました。マガダ国の首都ラージャガハでは妻の兄がいつも歓迎してもてなしてくれました。
ところがある時、ラージャガハに行くと、義理の兄はとても忙しくしており、まったくスダッタをかまってくれませんでした。義理の兄は「明日、ブッダとお弟子さんたちを食事にお招きしていて、その準備で忙しいのだよ」と説明しました。
スダッタは『ブッダ』という名前を聞いただけで、歓喜に打ち震え失神してしまいました。彼はブッダに会いたい気持ちを抑えきれず、深夜にも関わらず竹林精舎へ行きました。そこで経行(歩く瞑想)をしていたブッダに出会いました。ブッダから法を説かれると、スダッタに真理を見る眼が開かれました。
スダッタはひざまずいて懇願しました。「尊い御方よ、コーサラ国の民はまだ、ブッダの真理の教えを学ぶ機会を得ていません。どうかコーサラ国においでいただき法をお説きください」
ジェータ王子の林に黄金を敷き詰める
当時、コーサラ国はマガダ国に匹敵する大国でした。その領土は南はガンジス河を望み、北はヒマラヤの麓まで広がっていました。スダッタは首都サーヴァッティー近郊に、ブッダと弟子たちのために精舎(修行道場)を設ける計画を立てました。
当時の出家僧たちは各地で遍歴修行していましたが、雨季だけは洞穴や空き家に留まり、瞑想や教学をして過ごしていました。雨量が多い季節は道路や橋が流され、旅には不向きでした。また地面から湧き出る虫たちを踏みつけてしまわないように、無駄な殺生を避けるためでもありました。
彼はサーヴァッティーの地で理想の土地を求め歩きました。彼はジェータ王子が所有する美しい林が、都から「遠からず近からず」の距離にあり、まさに精舎にふさわしい場所だと判断しました。
スダッタからの熱心な求めに対して、その林をとても気に入っていたジェータ王子は戯れて返答しました。「そうだな、土地一面を金貨で敷き詰めてしまうなら、売ってやってもいいぞ」
スダッタは即答しました。「承知しました。そのお値段で買わせていただきましょう。さっそく、あなたの林に金貨を運びます」
ジェータ王子はびっくりして言いました。「いやいや、いまのは冗談だ。あの林を売るつもりはない」
スダッタは釘を刺しました。「あなたはクシャトリヤ(武士)です。武士に二言はないはず」。そばにいた高官も言いました。「スダッタ商人の言うとおりです。王子が土地の値段を口にした以上、取り消すことはできません」
ジェータ王子は一旦引き下がりましたが、それでもそんな膨大な黄金を用意できるはずがないと高をくくっていました。
翌朝、スダッタは全私財を投げ出し、牛車何台にも黄金を積んで、林の隅から並べ始めました。膨大な金貨の山を見たジェータ王子は度肝を抜かれました。
「たかだか一つの林を買うのに、こんなたくさんの黄金を使うのは割が合わない。なぜそこまでするのか?」とスダッタに問いかけました。
「目覚めた人ブッダがこの世に現われたのです。私はこの地にブッダと弟子たちが過ごせる場所を造ると誓ったのです」
スダッタの熱く真摯な思いを聞いたジェータ王子は「何と、そういうことか! そういうことなら、私にも協力させてくれ。私もブッダにお会いしたくなった」と言うと、その土地はジェータ王子から寄進することになりました。
祇園精舎の完成
スダッタはただちに僧院の建築に取り掛かりました。彼の夢と献身によって建てられた精舎は、清潔で実用的な修行道場、宿房、法話を聴聞する講堂、食堂、水場、沐浴所、トイレ、井戸、池、経行の道といった一切の設備が整っていました。
この精舎は『祇園精舎』と呼ばれました。ブッダもこの場所を深く愛し、最も多くの雨季をここで過ごし、たくさんの貴重な教えを説きました。コーサラ国王パサーナディもブッダに帰依するようになり、教えはコーサラ国中に広まりました。
精舎を寄進した後も、スダッタは仏教教団を熱心にサポートし続けました。スダッタの人生の最後の日々に、彼はサーリプッタから直接の指導を受け、これにより彼は深い平安と解放を得ました。
彼の死後、ブッダはスダッタを「在家の弟子の中で『布施第一』であった」と称賛しました。
マハーパジャーパティー:女性出家僧団の設立
シュッドーダナ王の崩御とマハーパジャーパティーの懇願
シュッドーダナ王が重い病に倒れました。高齢であった王は晩年、仏道修行に専念するようになりました。その最期の時、ブッダが駆けつけ、王の寝台の側に座って法を説きました。王はその教えにより悟りを開き、穏やかにこの世を去りました。
王の妻でありブッダの育ての母であるマハーパジャーパティー・ゴータミーは、『生老病死』の苦しみと無常を深く感じ、ブッダに出家を願い出ました。
彼女は「釈迦族の多くの若者が出家し、ブッダの弟子になりました。その中には既婚者も多く、彼らの妻たちも出家を望んでいます」と強く訴えましたが、ブッダはこの要求を受け入れませんでした。
数日後、ブッダがヴァイシャリーへ旅立ったことを知ると、ゴータミーは出家を望む五百人の女性とともに彼を追いました。彼女たちは覚悟を示すために自らの美しい着物と宝石を捨て、頭を丸め、法衣を纏い、裸足で数百キロの距離を歩きました。
ブッダの従兄弟である若き弟子アーナンダが彼女たちを見つけた時、彼女たちは疲労困憊しており、その足は腫れて血がしたたり、法衣は埃にまみれていて、泣いている者や倒れている者もいました。
アーナンダの取りなしと比丘尼団の創設
アーナンダは、ブッダの育ての母であるゴータミーの偉大な徳を強調し、女性の出家を許可するようブッダに取りなしました。
ブッダは、「マハーパジャーパティーは高徳な女性であり、すでに三宝に帰依し、五戒を守り、『四つの聖なる真理』を理解している。だから彼女は出家せずとも、在家で私の教えを実践すればそれで良いではないか」と述べました。
アーナンダが「女性も悟りの境地に至ることが可能でしょうか?」と問うと、ブッダは「もちろん可能だ」と断言しました。アーナンダは「もし女性が法と戒を守り、出家して悟りに至ることができるならば、ゴータミーの出家を許可すべきです」と訴えました。
ブッダが女性の出家を認めなかったのは、差別からではなく、女性の僧団への参加による男性修行僧の心の乱れを懸念していたのでした。さらに当時の女性の社会的地位を考慮した現実的な理由でした。最終的にブッダは、厳しい八つの戒律を守ることを条件に女性の出家を許可しました。
この決定は、インド社会の男尊女卑的な風潮の中で、仏教僧団の内外の調和を保ち、平穏な修行生活を維持するための現実的な対応でした。ゴータミーはこの決定を喜んで受け入れ、最初の比丘尼となりました。
この変革により、仏教教団は比丘(男性出家僧)、比丘尼(女性出家僧)、ウパーサカ(男性在家信者)、ウパーシカー(女性在家信者)を含む多様な構成を持つようになりました。
ブッダの導きとゴータミーのリーダーシップにより、比丘尼団は成長し、女性たちが続々と教団に加わりました。ゴータミーやヤショーダラーなど多くの女性たちが、解脱の境地に到達したのです。
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