マヘンドラナート・グプタ(M)の生涯(6)『不滅の言葉(ラーマクリシュナの福音)』誕生秘話

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Mのお金の使い方

1886年8月16日深夜1時、最愛の師ラーマクリシュナカーリー女神の名前を三度唱えると、肉体を去りました。このときもMはそばに付き添っていました。

師の死後、ナレンドラと若き弟子たちは出家してバラナゴルに古い屋敷を借り、ラーマクリシュナ僧団を形成しました。一方Mは「与えられた仕事は全部行なえ。しかし心は常に神を思うようにせよ」という師の指示に従い在家に留まりました。

その当時、Mは三つの学校に勤めていました。学校の一つからの給料をバラナゴル僧院に、二つ目からの給料は自分の家庭に、三つ目は師の未亡人サーラダー・デーヴィー(ホーリーマザー)のために使いました。M自身は自分の肉体の快適さのために、お金を使うことはほとんどありませんでした。

ホーリーマザーとの絆: Mの信仰と献身

Mはラーマクリシュナと同様、ホーリーマザーに対しても計り知れない信仰心がありました。ホーリーマザーも、Mとその家族に特別な愛情を抱いていて、Mの妻のニクンジャ・デーヴィーとは、何度も一緒に巡礼の旅に出ています。

また、ホーリーマザーは何か入り用なものがあると、Mに知らせていました。ジャガッダートリー(世界の母)供養祭のための土地を購入するとき、Mに金を送るように伝えました。Mは手紙を受け取ると、ただちに320ルピーを送りました。

ホーリーマザーの生地ジャイランバティが水不足に見舞われたとき、井戸を掘る費用を依頼すると、Mは100ルピーを送金しました。

ある日のことです。性欲に心をかき乱された弟子が、ホーリーマザーのもとにやって来ました。弟子の相談に対して、彼女は何も言わずに、ただ弟子をじっと見つめました。

弟子はただちにMのもとへ赴き、ホーリーマザーに迷惑をかけてしまったと告白しました。

M「どういうわけだね? 君はマザーの子供で、深く愛されている。どうしてその君が乞食のようにふるまわなくてはならないのだね? マザーが一瞥いちべつを投げかけたのではないのかね?」

弟子「ええ、マザーは私を長い間見つめてくださいました」

M「それならば、何の心配があろうか」

ベンガル語の歌を引用し、Mはさらにこう言いました。「聖なる母からおやさしいまなざしを投げかけられた者は、至福の内に泳ぐ

Mがこの歌詞を三度、深い熱情をこめて繰り返すと、弟子の心は平安に満たされました。そしてホーリーマザー自身が、自分をMのもとに送って、その一瞥の意味を説明したことに気づいたのです。

『不滅の言葉』誕生の裏側: Mによるラーマクリシュナの言葉の保存

1897年から35年間にわたり、Mはただ一つのこと、ラーマクリシュナのメッセージを世に広めることだけを考えていました。Mは生涯をかけて、師の珠玉の言葉を人類に届けました。Mは不朽の名作『不滅の言葉(ラーマクリシュナの福音)』をこの世に著したのです。

ラーマクリシュナは生前、部屋が多くの信者で混雑しているときでも、必ずMをそばに座らせました。興味深いテーマになると、突然師はMに「理解したかね? そのポイントをよく書き留めておきなさい」と言いました。

重要な会話の場にMがいないと、彼を呼び寄せました。また、他の弟子が師の言葉をメモしていると、ラーマクリシュナは「もうそれをする者がいる」と制止しました。後にMが『不滅の言葉』を発表したとき、信者たちはやっと師の振る舞いのわけを理解したのでした。

Mはラーマクリシュナのもとを訪れるたびに、日記に書き留めていました。当時のMは自分の使命を自覚しておらず、これらのほとんどはメモ書き程度の短い文章でした。

単語一つの場合もありました。他の者がこの日記から詳細を再現することは不可能でした。

しかしMには驚異的な記憶力がありました。メモ書きを瞑想することによって記憶を引き出したのです。

Mはこのように語っています。「あらゆる場面を私は何度となく瞑想した。そして師の恩寵によってそれらの瞬間を再現し、再び体験した。

自分の記述に納得がいかないときには、師を瞑想することに切り替えた。そうすると、正しいイメージがまばゆく本当に生き生きした姿で目の前に現われた

『不滅の言葉』へのホーリーマザーとヴィヴェーカーナンダの書評

ある日、Mはその一部をホーリーマザーに読み聞かせました。それを聞いて、彼女はこの上なく満足しました。「あなたの口から聞いていても、わたしには全てあの方がおっしゃっているように感じます」とMを祝福しました。

後日の手紙の中でホーリーマザーは次のように記しています。「愛するわが子よ! あなたがあの御方のそばで聞いていたことは全て真実です。だから、あなたは何も恐れることはありません。

あの時、あの御方が、あなたのもとに、これらのお言葉を全て置いていかれたのです。そして今、必要に応じてあの御方が、世に出そうとしています」そして、本を出すように命じました。

1897年、彼は様々な雑誌に師の言行録を、Mという名前で寄稿し始めました。ヴィヴェーカーナンダは読後感を次のように書き送っています。

「素晴らしいです。内容の進め方が実に独創的です。いままでの『人類の偉大な教師たち』の伝記や言葉は、書く人の主観によってけがされてきましたが、あなたは全くそうなさっていません。

言葉使いもまた、あらゆる讃辞も及ばぬほど、新鮮で、鋭く、すっきりしてわかりやすい。わたしがこれをどんなに楽しんだことか、言葉では表わせません。読んでいるうちに、我を忘れてしまうのです。

「わたしたちの仲間の誰もが、なぜ師の伝記や言葉を書かなかったのか、いまになってはっきりと分かりました。この偉大な仕事はあなたがなさることに決定していたからです。

師があなたと共にいらっしゃることは、明らかです。

ソクラテスの対話で、プラトンは世にあまねく知れ渡っています。しかしあなたは、完全に隠れていらっしゃる」

なぜMと称したのか?

この『不滅の言葉』において、マヘンドラナート・グプタは自分のことを『M』と称して、自分自身を隠しきりました。作者としての露出を抑えるために、Mは多くの登場人物の一人として控えめに描かれています。

とはいえこの作品は彼の日記が元になっているため、当然Mが毎回登場します。そこで彼はさらに多くの仮名を使い、あたかも複数の人物がいるかのように読者に魔法をかけています。

モニ、モヒニ・モハン、一人の信者、マスター(校長)、英国流の紳士…。

いくつかの箇所で自分自身の考えや思いを書いていますが、それもあくまで師の偉大さを称えるための手段でした。

1902年、すでに出版されていたものが集められ、ラーマクリシュナ・ミッションの出版部から『不滅の言葉』第一巻が出版されました。

『不滅の言葉』には、第一話、師との出会い1882年2月26日から、師が亡くなる数か月前の1886年4月23日までのラーマクリシュナの言行が記録されています。

ラーマクリシュナの最期が描かれなかったのは、Mが師の病床の日々を思い出すことに耐えられなかったからです。この本の最終章は、師の死後に創設されたバラナゴルの僧院をMが訪問したところで終わっています。

『不滅の言葉』の舞台背景や自然の描写はリアルで、Mの記憶力と文才には驚かされます。読者もその場にいるような錯覚に陥るほどです。

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